よつにかまる舟 1/3



ある日の晩、突然部屋におしかけてきた三井が言った。
「先生は男色の気があるらしい」と。
それは忠告という前置きから始められ、昭久は端から付き合うつもりもなく関係ないと一蹴したものだった。二枚舌の三井と称されるような、嘘をついてないければ死んでしまうと評判の男が口にする事など、信じなくても当然のことである。それに昭久は別段、彼に傾倒していた。
先生というのは昭久の身を置く長屋の女将の甥で、島香という男だ。見た目こそ平凡よりいくらか下の冴えない男だが、その聡明な頭脳に惚れているのは昭久だけではないだろう。語学留学を繰り返し、今では翻訳の職についている。彼の誠実さを、昭久は誰よりも知っていたのだ。
しかし、それでも三井は続けた。
「お前は特に懐いているだろう。だから勘違いされやしないかと心配なんだ。お前は俺と違って美男だ。体も健康、肌も白く絹のように滑らかで申し分ない。女でさえ羨むのだ、惑わされる男もいるだろうさ」
不快な言葉を浴びせている自覚もなく、三井は鼻息荒くそうまくし立てた。昭久は幼い頃から自らの容姿を好きになれたことはなかった。三代続く茶屋の看板娘として名を馳せた美しい母に似た顔立ちも、弱々しく細いままの肢体も、食っても肥えず食わねば骨が浮く胴まわりも。およそ男性的に優れたものを持たない自分を、昭久は嫌ってすらいた。女に羨まれようが関係ない。
「先生はとにかく新しいもの好きだ。男もとっかえひっかえしているらしい、お前も味見されぬよう気をつけろよ」
三井はそこで言葉を切り、ヒヒヒと笑って出ていった。

昭久は島香のことが好きだ。だがそれは師弟愛であり、性愛に結びつくことはない。今まで意識したこともなかった。その為に気付くことが出来なかったのだ。丸眼鏡の奥のやたらに細い目が、値踏みするような目つきで見ていたことを。一度知ってしまえば、日増しに恐怖へと変わっていくほどの、異常な熱を。


本を届けにくる島香と、昼に喫茶で落ち合うだけの約束だった。しかし丸眼鏡の洋装ののっぽの男は、夜になって長屋を訪れた。列車を乗り継いできたと息を弾ませて、土産にとカステラが入った紙袋を下げて。
昭久はそれにいつものように繕ったが、例の噂が頭の片隅に巣食ったままでとても話す気にはなれなかった。本を受け取ってしまえば、直ぐにでも帰って欲しい気持ちでいっぱいだった。そんな昭久を余所に、話好きの女将が島香を引きとめる。
「今度はどこまで行っていたの」
「通訳の仕事で大阪まで。土産は貰いものです」
「あら遠かったでしょう。お夕飯は?まだなら残りものならあるから食べていきなさい」
「頂きます。昭久くんは、もう済ませたのかな」
「僕は先にいただきました。先生、本ありがとうございました。ゆっくりしていって下さい」
女将と島香の会話をかいつまんで耳に入れ、なおざりに相槌を打っていたが、昭久はついに部屋へ引き上げることにした。この調子では泊まっていけと言い出すに違いない。同じ屋根の下で寝起きするのなら、せめて少しでも接触する時間を減らしたかった。慌てて階段を上っていくと、女将が「変ねえ、いつもは先生、先生って自分から話をふるような子なのに」と呟いていた。

それから一度、島香が部屋へやってきた。夕飯を済ませたから、一緒に風呂屋へ行こうと誘いにきたのだ。昭久は肌を見せる恐怖に負けた屈辱にも耐え、それを断った。受け取ったばかりの本を少し読みたいと言って、時間をずらして一人で風呂に浸かる間でさえ気が休まらない。
明日になれば島香は帰る。
それだけを念じて、昭久は部屋戻り、凍りついた。
「せ、んせい……?」
机の傍に座る島香が、畳に尻をつけて座布団を撫でていた。昭久は幽霊でも見るように顔を強張らせ、その場から動けなくなった。先ほどまで尻にしいていたそれのぬくもりを確かめるような手つきがおぞましく、部屋に入ったものの戸を閉める勇気もない。
「勝手に入ってすまなかったね。さっき渡した本のことで話したいことがあったんだ」
「そ、うなんですか……」
「ちょっと時間いいかな」
「構いませんよ。呼んでくだされば、僕が下にうかがったのに……すみません」
「いいんだ。君が湯冷めすると可哀想だから」
昭久は不審に思われぬように、必死に体を動かした。あくまでも柔和な顔で、いつも通りに演じる島香が不気味だった。それと同時に男色の話こそが間違いだったのではないかと期待も持った。しかし一度疑ってしまうと、体が反応する。島香が少しだけ脇にずれ、座布団を譲るのを遠慮することにも苦労した。今まで当たり前だった距離に違和感を覚え、どうしても落ち着かない。
「8、14、23、25、56、と…71の訳なんだけどね」
「あ、はい…えっと」
「落ち着いて、ゆっくりでいいよ」
机の上に置きっぱなしの分厚い洋書を昭久が慌てて開く。すると島香が、宥めるように肩を抱いた。寝間着越しに伝わるその手の平の温度が気持ち悪い。昭久は温かった体が急速に冷えていくのがわかった。
「髪がまだ濡れているね」
島香がそっと囁き毛先の露を指の腹に乗せる。それを口にする気配を横に、昭久は震えを抑えるのに必死だった。
「へっ平気です。ええと、8頁でしたよね」
「ああ、うん。じゃあ、ここからね」
指定された頁の英文に指先を添えて、島香が滑らかに読み上げる。理解しにくいところだけ、文法から丁寧に教える通りを別の紙に書き取りながらも、昭久が集中することはなかった。


 


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