私と上司の一年間
「……仕事辞めたい」
静かなオフィスに思いの外大きく響いた自分の声に、私は慌てて口を押さえた。
しかし、今この場には自分以外誰もいない事を思い出し、そっと息を吐く。
どうやらだいぶ参っているらしい。
残業続きで頭が回らないのか、仕事の進みも明らかに遅い。
明日も残業決定。一人苦笑して書類を整理し、デスクの引き出しを開けた。奥の方に端だけ見える、白い封筒。少し考え、そのクシャリとした辞表届けを、無造作に取り出す。
「あーあ。私ってこんなに優柔不断だっけ」
――自分の心も、クシャリと音をたてた気がした。
***
鴻乃鈴(こうのれい)、外資系企業に勤めるごく普通のOLである。高校卒業と同時にこの企業に就職した私は、今では20歳。やっと成人した。
人が羨むような家柄もなく、尊ばれるような学歴もない。顔は普通よりは整っていると自負しているが、何故かやたら顔面偏差値が高いこの会社では地味な方だろう。
日本有数の財閥、紫苑(しおん)グループ。その系列なだけあって、優秀な人員の多い大企業である我が社の特徴は社員の容姿に止まらない。長所を挙げればキリがないが、それ故入社の扉はかなり狭い。高学歴な人間でもボロボロ落ちる企業――にも関わらず、高卒で受かった私。周囲が邪推し、とやかく言うのも仕方ないと言えた。
そんな心情面でかなり負担がかかる環境での仕事。高校出たてのか弱い繊細な私は大いに傷ついた――りはせず、むしろ、いい大人がこんな小娘僻んじゃって恥ずかしいわねと、鼻で笑って真面目に仕事をしてきた。我ながら図太い神経だと思う。が、生憎一々中傷に反応して傷つくような可愛げとはとんと縁がない。
――では何故、 人間関係以外は好条件の、周囲が羨む大企業を辞めようとまで思い詰めているのかと言うと。
「最近の仕事、どー考えても量がおかしいのよねぇ……」
明らかに増えた仕事量のせいだった。
異動もなくずっと総務の平社員をしている私。昇進なんて無縁。まだぺーぺーである。なのにやたら多くなってきた仕事。オブラートに包む事無く言えば軽く二倍の仕事量だ。しかも何の前兆もなく、いきなり。どう考えてもおかしい。何より一番おかしいのは、他の人が何の疑問も抱いてない事。
流石に二年も勤めれば、ここの社員の性質も分かる。彼らは私を妬みこそすれ、嫌がらせをしたり仕事の邪魔をしたり、なんて事はしない。自尊心は軒並みエベレスト並みなのだ。自分たちに誇りを持っているから“異例”の私に厳しいのだし、自分たちの誇りであるのだから、“仕事”には手を抜かない。
だから原因は彼らではないし、上司から与えられる仕事量も変わったわけではない。しかしいつも通りの事をしているはずなのに、気付けば倍の量を処理しなくてはならなくなっている。
不可解……と言うか。
――気味が悪い。
肌寒さとは別に、粟立つ腕を抱え込む様に擦って会社を出る。
鍵を返し、すっかり顔馴染みになった警備員のおじさんに会釈して、タクシーを呼ぶために大通りへ出ようと歩くこと幾何(いくばく)か。
私は突然、拉致された。
***
「簡潔かつ正当な説明を迅速にお願いします」
思った以上に冷ややかな声が出た。しかしバックミラー越しに写る顔には、全く気にした風もない緩い笑みが浮かんでいるから問題ないだろう。ニヤニヤでもニコニコでもなく、どちらかと言うと困ったような顔だが、生憎とそれに絆されてやる程男経験は少なくない。私の現在地が某高級車内の後部座席だろうと、運転席に座るのが女子社員に人気の他部署の上司だろうと、狼狽え縮こまるなんて事はしない。そんな“女の子らしさ”とは、とうの昔にすっぱり縁を切ったのだから。
“女の子”だったら気後れするような状況を、あえて創りだしたであろう誘拐犯は、思ったような効果が出ない事に観念したのか、ようやく口を開いた。
「あー、ほらオレ、運転中は喋らないタイプだから」
「現在進行形でその言葉を裏切ってますね、主任」
どうやら違ったらしい。誤魔化す気なのか更に罠をかける用意があるのか、彼が口にしたのは私の求めるものではなかった。
主任――燕谷宏一(つばめやこういち)は、人事課の主任である。直接の上司ではないが、24歳というという若さで主任を務めている事と、人好きのする陽気な性格、仕事の正確さで有名な人物だ。主に理想の結婚相手として、その有望さから女子社員の口の端にのぼることの多い彼だが、私も別の理由で、個人的に気になる人物であった。
勿論私が気になっているだけで、主任と課の違う一般社員の私とは何の接点もない。
そんな彼が、一体全体どうして私をいきなり車に拉致して問答無用で何処かへ向かっているのか……――その理由の説明は、今のところ得られそうにないが。
「鴻乃さん、煙草吸って良い?」
「運転中は喋らないんじゃなかったんですか」
「今信号待ち」
返事を待たずに煙草を取り出し、咥える主任。開けた窓へ流れる煙に視線をやりながら、訊いた意味ありました? と呟く。
――懐かしいにおいが鼻を突いた。高校時代、夜の店で働いていた時に馴染みだったにおい。
……主任、いい銘柄(もん)吸ってやがる、羨ましい……と、なんとなく口寂しくなりながらもう一度目をやると、バックミラー越しに目が合った。
信号が青に変わる。
静かにアクセルを踏みながら、主任が言った。
「……鴻乃さんさ、何者?」
――何者。
眉をひそめる。どうやらこれが本題らしい。冗談かと思いたいが、さっきの声色は真面目だった。馬鹿馬鹿しくて鼻をならしそうになるのをなんとか抑える。それにしても、何者? そんなの、言い淀むことでもない。
ただ、私は、
「ちょっと上の人に気に入られてる、一般社員です」
唇の端で微苦笑を。
浮かべて淡々と答えてみせた。
bkm