03
「……え、本当、ですか……?」
『はい、真に申し訳ないのですが、編集部の都合で……、』
がちゃん。
みなまで聞かずに受話器を置いた。
うふふふ、ふふふ、ふふふふふ……。
一拍。
「ふりーだぁあああむっ!!!」
鳥が一斉に飛び立った。
今日の私はご機嫌である。ええ、それはもう満面の笑みを浮かべてしまうくらいに。
普通、往来で一人笑っていたら気味悪がられそうなものだけど、私のこの聖母の様な微笑みを見て、(聖女サマじゃない、聖母様である。これ重要)気味悪がる人間はいまい。
「ママ、あのオバサンにやにやしてる〜」
「しっ、見ちゃいけません」
「まーま、あのおばしゃん、」
「こっち来なさい」
どうやら私以外にも一人で笑ってる人がいたらしい。勝手に親近感を覚える。でもダメね、オバサンの一人笑いとお姉さん(私の事である)の微笑みとは天と地ほどの差があるわ。
「……レイちゃん、レイちゃんの周りだけ人がぽっかりいないの、気づいてる?」
「あらハイマーさんご機嫌うるわしゅう」
「いや、レイちゃん、」
「それでは失礼」
うふふふ今の私は何を言われても気にしない。そう、まさに聖母様の様な寛大で慈悲深い心で全てを許せる。周りにぽっかり人がいない? 私の清冽で凄烈な空気に周囲が気後れしてるのね。大丈夫ハイマーさん分かってる。
「お嬢ちゃん、あんた、」
「アスベスさん、お久しぶりです」
「レイ嬢、何があったんだい」
「コリィさん、こんにちは」
「……コーノさん、一体どうしたの」
「ススフィルさん、寝癖ついてますよ」
ああ、気分爽快。
「何があったの、コーノちゃん」
いつもよりたくさんの人に声を掛けられながら、ルメニアさんのアパートに着く。皆一様に心配そうな若干引いた様な表情だったが、例にもれず、ルメニアさんも同様に九割九分引き、一分心配という友達甲斐のない表情で私を見ていた。
「失礼ですねぇルメニアさん。親友が訪ねて来たのに何ですか、その顔は」
「親友になった覚えはありませんし今の鴻乃さん面倒です」
「そこまで!?」
ばっさばっさと凪ぎ払うルメニアさんの話し方は通常運転だが、私の呼び方がコーノちゃんから鴻乃さんに戻っている。ウィルアーロ大陸の人にとって漢字発音は難しいらしいのに、あえてそれで話すなんて、今の一瞬でルメニアさんが私と心の距離をとったのがよく分かる。興奮冷めやらぬ状態だからダメージは少ないが、冷静だったら結構心にきただろう。ただでさえルメニアさんの口調って無味乾燥なのに。
たがしかし。今の私は聖母様の如く寛大な心を持っている。ルメニアさんの冷たい反応にも屈しない。いやほんとはちょっとショックだけれども。でもいつもより全然マシ。たかだか実験オタクの変態に負けないわ。
何度言ったか分からないその称号を呟き、私は詩人なら大輪の花の様だと賞賛するであろう笑みを浮かべた。今日の私はひと味違う。ええ、違うのよ!
「締め切りが延びたんですぅうううっ!」
――延びたのは一日だけで、明日が締め切りだと私が知るまで、あと、一時間。
***
――後から冷静になって思えば、自分でも気持ち悪いテンションだったと後悔して身悶えた。そして一晩布団に丸まり羞恥で震えた次の朝。
爽やかな朝日に目を細め、気分転換に外を歩けば、カラリとした陽気に心地よい風が吹き抜ける通りを、子供たちの笑い声と活気のある商売人の掛け声が飛び交うのを肌で感じる。
ああ、素晴らしい散歩日和ね。
「先生! 何処っすか!? せんせぇッ!?」
「今度こそ、今度こそはッ! 締め切り守って下さいよ!」
「僕今日カノジョとデートだったんですよぉおおお!」
「しゃらくせぇっ!! こちとら結婚記念日だっての!!」
「先輩の奥サン、にっこにこしてんのに何かめちゃくちゃ怖い人ですもんね……」
背後から雑音が聞こえるわ。自然の美しさといっても過言ではないこの朝の清浄な空気を乱すなんて、とんだ無粋な輩がいたものね。そんな奴らが子供たちに夢と希望を運ぶ編集者のはずがない。だからあの阿鼻叫喚、じゃない賞賛に値する肺活量の悲痛な……いえいえ、元気のよい叫び声は私とは無関係。うん。
「お、レイちゃん、今日もやってるねぇ」
「あらハイマーさんご機嫌よう。やぁねぇ私はちょっと散歩してただけよ」
「あんたを追い掛けてる奴らん中にゃあ、ウチの倅も混じってんだ。ちったあ手加減してやってくれよ」
「考えときます」
優雅に歩いていると、古書店のハイマーさんに声を掛けられた。昨日は私の顔色を窺う様に恐る恐るといった体だったが、今日はカラッと晴れた天気の如く爽やかに挨拶してくれる。
そしてもはやこの三年で定番となりつつある遣り取りをし、店に入った。ハイマーさんの倅とやらは、今日デートをドタキャンせざるを得なかったあの青年だろう。南無。
少しお小言は言っても、基本的に追跡者(へんしゅうしゃ)から私を匿ってくれるハイマーさんは、気のいい近所のオジサマである。若い頃はさぞおモテになられただろう。今でも色んな方からモーションを掛けられているのを見掛けるが、彼は亡くなられた奥様一筋だ。うんステキ。
いつもは一言二言話したら、お互い自分の事に専念するのだが(私は古書巡りでハイマーさんは古書整理)、今日は違った。
「なあレイちゃん」
「はい、何でしょう」
珍しい事もあるものだと、すぐさま本に埋もれようとしていた私は、振り返って更に驚いた。
ハイマーさんは、今まで見たこともない、真剣で、何かを恐れるような、それでいて縋るような顔をしていた。
「ど、うしたんですか」
驚きのあまり声が詰まる。ハイマーさんはそれに苦笑し、一度瞑目するように空を仰ぎ、笑った。
「すまねぇな。何、ちっと込み入った話があってよぉ。レイちゃんに頼みがあるんだ」
「ハイマーさんが、私に、ですか?」
ハイマーさんは、自分の事は自分でやる人だ。そして頼む側より頼まれる側。そんな人の頼みを、私が叶えられるとは思えないが。
「あー、ほら、レイちゃん、ルメニア嬢と仲良かっただろ?」
突然出てきた知った名に驚く。
第三者から見て、私とルメニアさんは仲が……いい、の、か? そう見えるなら勿論嬉しいが。
はた目には私が一方的にルメニアさんに付き纏っている様に見えるらしい(編集者情報)という認識を重々承知している(色んな人に「彼女に迷惑をかけてはいけませんよ」と言い含められた。私はそんなに信用ないのか)ため、素直に私たちの関係を友人と認める発言に驚く。むしろ他称:友人は初めてかもしれない。言ってて悲しくなってきた。
……ともかく、ルメニアさん関係なら、私に頼まなくても何とかなるはずだ。
彼女は変態科学者だが、非常識ではない。個性豊かなウィルアーロの人間にしたら大人しい方だろう。そこはかとなく苦労人そうな雰囲気を漂わせている。特に例の“賢者”関係で。
ものを頼む時は間接的でなく、直接言う派の元会社勤めの私は、頼み事を他を介して頼まれるというのが不愉快なので、そう思うのだが。
そんな思考を読み取ったのだろうか、ハイマーさんは言いづらそうに口を開いた。
「あー、俺はなぁ……、ちょっとルメニア嬢とは顔合わせにくいんだよ。つーよりは、合わせる顔がないってのが正しいかな。……頼む、後生だレイちゃん」
ルメニアさんをルメザニアンではなく愛称で呼ぶ事や、その表情から、深い事情があるのだろうと察する。もとより、普段お世話になっている人からの頼み事を断るほど人でなしではない。そこまで重大な事ならと、私は快諾した。
「いいですよ。他ならぬハイマーさんの頼みですし。どうせ近々ルメニアさんの家に行くつもりでした」
ついでに昨日も行って来たばかりである。そして盛大にあしらわれたばかりでもある。
「助かる。――この本をお嬢に届けて欲しいんだ」
その言葉と共に渡されたのは、一冊の、――手記?
だいぶ年季が入っていて、今にも端から崩れそうな本だ。表紙も黄ばんでいて、題名を読み取ることもできない。
「何も言わなくても、お嬢なら見れば分かる。ああ、見て分かる通りボロイから、扱いには気を付けてな」
「分かりました」
本を受けとる。そして、驚いた。かなり厚みがあるのに、重さをほとんど感じない。
片眉をあげてしげしげとその本を眺めた後、慎重にハンドバックに入れ、訊ねた。
「では、ご用件は以上ですか?」
その質問に、ハイマーさんは一瞬目を見開いた後、二十年前はさぞ多くの女性を陥落させたであろう男臭い笑みを浮かべ、言った。
「レイちゃんのそういうとこ、いいねぇ。だから信用できる」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
こちらから無駄な詮索はしない。深追いは禁物。
それが、私が八年間会社で培ってきた、信頼を勝ち取る方法である。
bkm