励ましをください
ジリジリと耳障りな高い音が鳴っている。無意識に眉を寄せ、ぼんやりした頭のまま布団を被ってまるまるが、安眠を邪魔する音は止まるなく主張を続ける。うるさい。もぞもぞと手を伸ばして枕元を探る。無機質なそれに指先が触れたと思ったら、そのまま手からこぼれ落ち、目覚まし時計は床へ転がった。
そして盛大な抗議音。
音の高さも大きさも、何も変わっていないはずなのに、盛大なブーイングに聞こえる不思議。はいはい起きます。起きますよ。ようよう覚醒してきた頭をずぼっと布団から出して目を開ける。朝の白々とした光に目を眇め、大きく伸びをしてベッドを下り、未だ抗議を続けながら床を転がる目覚まし時計を拾って止めた。
大人しくなった時計を布団の上に投げ、頭を掻きつつカーテンを開ければ爽やかな青空が広がっていた。随分澄んだ空だ。ここ最近の曇天で、ご無沙汰だった青に惹かれて窓も開ける。北風が身に染みた。後悔とともに窓を閉めた。
しかし冷たい風に当たったおかげで意識はだいぶはっきりした。これが怪我の功名か。毛賀だけに。……我ながらくだらな過ぎてちょっと本気で落ち込んだ。マジでくだらない。と、気持ちと一緒に物理的に落ちた視線が別の物を捉えた。途端に馬鹿みたいに気分が向上するんだからほんと自分は単純だと思う。写真立ての向こうから、はにかんだ笑顔を向ける愛しい彼女。隣に写っているのは数ヶ月前の自分なのに、それにさえ嫉妬してしまう俺は相当末期患者だろう。しかしそんな事は些末なことだ。全く問題ない。よし、出勤前に彼女におはようメール打って今日も一日頑張ろう。
寝起きと一転、爽快感に溢れて部屋を出て――。
俺はハゲになっていた。
――いや。
いやいやいやいやいやいや。いやいやいやいやいやいやいや!
落ち着け。落ち着くんだ俺。深呼吸深呼吸。ひっひっふーってちげーよお決まりネタじゃねーよだから落ち着けよ俺ぇえええ!! すーはーすーはーすっ……グフォ、げほ、ぉえ噎せた。はいいくよー吸ってすー吐いてはー……すーはー……、……。……落ち着いた? 落ち着いたな? よーし、もう一度鏡を見よう。なんかやっぱまだ寝呆けてて見間違えたのかもしれないしな。はは。ハゲになってたって。馬鹿言ってら。照明が反射して見えなかっただけに決まってんだろ。さぁ鏡を……見、よう……、……っ……て。
「――ッなんだこりゃぁああああア!!?」
現実は変わらなかった。おいどういうことだ。
――洗面台の鏡。そこに写る俺の頭は、照明の光を浴びて、つるりと光り輝いていた。
意味が分からない。
***
朝起きて目が覚めたらいきなり禿げてました。
んな馬鹿なことあるか。他人に言われたら確実に俺自身そう答える信じがたい現実が、自分の身に降り掛かっているという不幸。何この不幸マジ不幸。通勤中の皆々様の視線の痛いこと痛いこと!
――呆然と鏡を見て立ち尽くすけと数十分。頭の神秘はたいへん気になる事象だが、このまま魂翔ばしてるのは不味い。出社時間も迫っていたことから、慌てて支度をしていつもより五本遅い電車に乗り込んだ。しかし度々感じる違和感。爽やかな冷たい風がひやりひやりと頭部を撫でる。駅までの道すがら、ランニング中の学生さんやら犬の散歩のおじさんやらにガン見された、この光り輝く(認めたくないが)俺の頭は、どうも人の関心を集めるらしい。可愛らしいマルチーズを連れた五十代後半とおぼしきおじさんに同情の目で見られた時には心が折れた。遅刻の危機に曝されてなければ二度と立ち上がれなかったこと請け合いだ。
さて、前置きが長くなったがここで俺の状況と心境を一言。動物園のパンダ。これで察してくれ。
坊さんもかくやってくらい綺麗に剃られて(剃った記憶は全くない)つるぴかりんな俺の頭は、車内でも素晴らしく人の視線を集めていた。そこかしこで囁かれる言葉の数々。「え……え?」「え、なんで……」「何あの光沢……」「あの若さで何があった」「目が、目がァ……!」「スキンヘッドというより坊主というよりハゲという言葉が何よりもマッチするあの髪型! 新しい、新しいわ! ヘアカット名としては……やっぱりハゲ?」「は、ざまぁねぇなイケメンぷぎゃー」「爆ぜろ」「禿げろ」「もう禿げてる」「「「ぷぎゃー!!」」」
ねぇなんなの皆いじめなの?
ていうかコソコソ言ってるお姉さん方聞こえてるよ? あと最後の三人組は絶対わざとだろおいもぐぞ。
他人に関心が薄いはずの日本人さえ興味を示す俺の頭。やべー超輝いてる。俺超輝いてる。多分人生で一番輝いてるわ今。つーか電車乗り合わせたサラリーマンの皆さん、古き善き日本人精神発揮しましょうよ。慎ましく目ぇ逸らしましょうよどうですか。なんで目ぇかっぴらいて凝視なの。眩しげに目を細めるの。あ、優先席のおばあちゃん拝まないで。隣のおじいちゃんも拝まないで。もう止めて! 俺のライフはもうゼロよ!
停車駅のアナウンスに、しくしく痛む胸を庇って外へ出た。
――そんなハードな通勤時間がまだマシな方だなんて、一体誰が予想しようか。だか確かに。考えてみれば所詮あの時の周りは他人。見知らぬ他人。見ず知らずの他人。つまりどう思われたって諦めがつく。しかしそうも言ってられないのが会社。……休みたい。休みたかったよ実際さぁ……。
「ん? 今日は遅かったな毛賀ー、え……」
「毛賀さーん! 昨日の、……け、が……?」
「あ、おはようございます毛賀先輩!……ぇ、毛が……」
……会う人、会う人。けがけがけがけがうるっせぇえええエ!!
「毛賀」って言ってんのか「毛が」って言ってんのかどっちだよチクショー!! 俺を呼び、笑顔が固まり、視線を頭部に固定したまま「けが……」と言ってフリーズする後輩同僚上司の皆さん。だからけがってどっちだ。そんなにこの頭が気になるか。一番気になって仕方ないのは俺だわアンチクショーが!
「……毛賀、さん……?」
ふと、耳朶に触れた声に、今度は俺が固まった。
会いたくて会いたくて会いたくて。でも今この時ばかりは絶対会いたくなかった彼女の声。
瞬間芯から凍結した身体を、どうにかこうにか動かし恐る恐る振り向く。ギクシャクしているのは動きだけで、目は速やかに働きそのひとを捉えた。視界に写るのは、やはり彼女の姿。しかし、彼女の視線は一向に俺と合うことはなく――、
「――…毛が……」
ただただ俺の頭を見つめていた。
***
散々な一日だった。
この素晴らしく悲惨な今日という日に乾杯。グラスの中身は俺の涙だ。何度飲んでも尽きることはないだろう。
――原因不明の突然な頭髪不毛。しかもなんか輝いてる。今日一日で大切な何かを失った気がした。
原因は? 対処法は? 目を皿のようにしてネットの情報を洗ったが、何も分からなかった。……何も、分からなかった。
時刻は既に深夜二時。家に帰ってから、夕飯も食べずに調べ通しても何の成果も得られなかったという事実は、かなり俺を参らせていた。そして疲弊した心は、無意識に救いを求めていたらしい。いつの間にか指はキーボードを叩き、今の俺の心からの叫び――そう、『はげましをください』と、そう打って――。
『ハゲ増しを下さい』
変換キーに指を置いたまま、俺は崩れ落ちた。
bkm