短編 | ナノ



うちの猫が語尾に「ぽよ」とつけていたんだが。

「美代(みよ)ちゃん、遅刻するぽよ!」

 どうしてだろう。うちの猫の語尾に「ぽよ」がついている。


***

 洗面台の棚に置いたスマホがLINE受信の音をたてる。専修ごとのグループLINEからきたそれは、一限の講義が休講になった連絡だった。それを暫く眺めてから、今日の時間割を思い出す。確か二限は空きコマだったはず。三限からなら昼ご飯を家で食べてからでも余裕で間に合う。ならそれまでもう一眠りしてもいいだろう。涙袋が強調される様にシャドウを塗っていた手を止めて、クレンジングに手を伸ばした。
 顔を洗ってリビングに戻ると、母が電話で話していた。朝から誰だろうと疑問に思うと同時に、母の口からいつもより上品な笑いと「まあ、お義母さんたら」という言葉が漏れる。納得しながら台所へ向かうと、目が合った母が「大学は?」と口パクで訊いた。
 同じく口パクで「休講」と伝えると、一度頷いた母はちらりと手がつけられていない朝食を見て、次に二階へ視線をやる。指も上を指して、その後私を差し、お願いと言うように顔の前で片手を上げた。
 それに言いたい事を察し、軽く頷いて今度こそ台所へ足を運ぶ。

 妹を起こすのは、牛乳を飲んでからでもいいだろう。

 電話越しじゃ見えないだろうに、口元に手を当てにこやかに笑う母を横目に、低脂肪牛乳をごくりと一杯。我が家の嫁姑関係は険悪ではないだろうが、それでもやはり気を遣うのだなぁと、人間関係の難しさを考える。目で「頑張って」と合図して、コップを置いてリビングを出た。

 割と高い段差に、うちの階段は危ないなぁといつも思う事を内心呟き二階に上がる。姉妹で二つ並んだ部屋の、「美代のへや」と書かれたプレートが下がった扉の前に立てば、ごそごそと中から音がした。もしかしたら自分で起きたのかもしれないと思いつつも、扉を開きながら一応口にする。

「美代、朝ご飯。早く起きないと遅刻する、よ……」

 そして開ききった扉のノブを掴みながら硬直した私の目に飛び込んできたのは、我が家の猫が、妹の頬をぺちぺち叩き、「ぽよ」と連呼しながら起床を促す姿だった。

 ……これはいったい、どういうことだ。

「ん〜うるさいなぁ。メルポン、もうちょっと寝かせて……んん、ちょっと、窓開けた? なんか風、が……」
「……」

 妹が目を擦って寝返りを打つ。中途半端に部屋に入った私とばちりと目があった。

「……」
「……」

 私は呆然として声が出ないが、妹は妹で何を言ったらいいか分からないらしい。この慌て様は、妹の彼氏が妹のベッドに転がっているのを私が発見した時以来である。あの時は妹が大人の階段を登ってしまった事に私もショックを受けていて、妹が何と言っていたかあまり覚えていないが、確か「勘違い! 勘違いだから! これメルポ――」と何やら言いかけたところで彼氏に後ろからガバリと抱き締められていた。邪魔者は退散しようとギクシャクリビングに戻った記憶がある。自室に戻らなかったのは姉の優しさである。隣に人がいれば気兼ねするだろう。何にとは言わないが。
 今回も妹は、ガバッとベッドから上体を起こしてパクパクと口を開閉させる。みるみるうちに顔が青くなり、赤くなり、再び青くなったところでうちの猫が口を開いた。

「やっと起きたぽよ!」
「ちょっ、ばかメルポンんん!」

 ――ぽよって、なに。
 目を見開く私の前で、我に返った妹がアワアワと猫の口を塞ぐ。「ばかばか! 家族の前では喋らないって言ったじゃない!」「あっ……み、美代ちゃんごめんぽよ!」「だから喋っちゃだめっ」「ごめんぽよ〜!」と妹と猫が会話する。全部聞こえているのだが、聞かないふりをした方がいいのだろうか。それとも突っ込み待ちなのだろうか。

「お、お姉ちゃん! あ、あのこれはね!」

 妹がバッと私に向き直り、弁解しようと口を開く。表情が私のマグカップを割ってしまった時とそっくりだ。つまり言い訳をする時の顔。この状況で何を弁解出来るのか。特に妹は素直で嘘がつけないタイプだというのに。

「ええと、あの、その、これは〜、凄いよね! メルポン喋れるんだよ! さ、最近の猫ってすごいねぇ」
「誤魔化せてないぽよ」
「メルポン!」

 必死で妹が言い繕うのを猫があっさり無駄にする。もっとも妹も事実を言っているだけで全然誤魔化せてないのだからあまり意味はないけれど。
 黙ったままの私に妹は余計に焦った顔をして、「あの、お姉ちゃん、違うの」と口走る。何が違うと言うのか。先日友人と見た映画で主演男優がヒロインに向かって言った「待ってくれ、違うんだ」という台詞を思い出した。ベッドに裸の別の女を寝かせて違うんだも何もないだろうと醒めた感想を抱いた覚えがある。友人は友人で「みんな嫌な気分になっているな」と恍惚気味に話していた。彼女は映画の趣味はもとより性癖もあまり良くない様であった。

 じっと妹を見つめると、しどろもどろだったのがだんだん口をモゴモゴさせるだけになり、ついには沈黙した。しかし空気を読まず「まったく美代ちゃんは押しに弱いぽよ!」と言う猫を睨む眼光は鋭い。猫もビビった様に一歩後退った。「ダークナイトとの戦いで身に付けた力の弊害ぽよ……」何かボソリと呟いた様だが聞き取れなかった。聞こえたらしい妹は、キッと更に猫を睨んだから碌な事ではないのだろう。

 しかし猫がぽよぽよ言うせいで、ちょっと慣れてきてしまった自分がいる。喉元過ぎれば熱さを忘れる。苦しみとは違うがだいたい似たような状況である。少なくとも妹よりは冷静になってきた。だからまあ、これだけは言っておこう。

「とりあえず、遅刻するから支度しなよ」

 「……っえ、やだ遅刻ー!!」と叫ぶ妹よ。気付いてないようだから言っておく。あんたさっきから猫が喋ることについてだけ言及してたけど、私は猫が喋る事より語尾が「ぽよ」の方に衝撃を受けたわ。
 そう告げれば「え!?」「ぽよ!?」と返ってくる。飼い主と飼い猫は似るのだろうか。まん丸に開いた目も疑問符のトーンもまったく同じである。

「だって、友人も喋る猫飼ってるし」

 それだけ言って扉を閉めた。中から「ええー!?」「ぽよー!?」と聞こえてくるが、後回しだ。私は寝たい。

 「か、帰ってきたら詳しく!」と叫ぶ妹に内心分かったと頷いて、自分の部屋のベッドに飛び込んだ。


***

「すまない、遅れた」
「大丈夫。教授もまだ来てないし」

 友人は息を切らしてドサリと席に座った。彼女はハードなバイトをしているらしく、いつも携帯と睨み合っている。講義中に呼び出しをくらって途中退室する事も少なくない。彼女は単位よりバイトの方が大切なようである。以前、そんなに大変なら辞めたら? と提案した時、苦笑して首を振られたので、辞められない理由があるのだろう。彼女が続けたいなら私が止める理由はない。
 肩で息をする彼女に、「お疲れ様」の意味を込めてまだ蓋を開けていない飲料水を渡せば、嬉しそうに受け取って、やけに気持ちのこもった感謝を述べてくる。演劇サークルに入っているからか、たまに大仰な言い回しを使う彼女との会話は、新鮮味があって楽しい。けれど彼女はキャストじゃなくてスタッフを志望していた気がするが。

「ねぇ、聞いてよ。うちの猫も喋るみたいなんだけど、語尾に「ぽよ」ってつけるのよ」

 彼女が飼っている猫を思い出して、今朝の騒動を話す。
 彼女の猫は気位が高いようで、気高い調子で話すのだが、言葉遣いが古典調でとても渋い。友人の話し方が移ったのだろうと、見ていてとても微笑ましい。
 彼女の猫は、いわゆる「ツンデレ」だ。「飼い猫」という言葉には「飼われているのではない!」と怒るくせに、友人の傍を離れない。私が近寄っても、ササッと友人の後ろに隠れてしまう。「お前からはフラワーの匂いがする」と言って友人に張り付き、ゴロゴロと甘える様子は主人大好きな猫そのものだ。フラワーの匂いが何かは分からないが、柔軟剤の香りだろうか。
 そんな友人の猫だが、もちろん初めて見た時は驚いた。夢かと疑って友人をつねってしまったし、おもちゃかと疑って猫をひっくり返して転がした。友人も私に見られるのは本意ではなかった様で顔を引きつらせたが、既に言い訳の通じない状況であったため観念して語ってくれた。と言っても、纏めれば「なぜ話せるのかは分からない。秘密にしておいてくれ」という二つだが。
 猫が話せるというのには愕然としたが、妙に猫が堂々としているのと、話し方が似合っていたために激しい違和感は抱かなかった。騒いで話を大きくすればまずい事になるだろうし、大切な友人の秘密である。墓まで持っていこうと決めた。今朝ちらりと妹に言ってしまったが、うちの猫も話すのだからノーカンである。

 そんな前例があったため、うちの猫が喋ったことは、驚きこそすれそこまで取り乱す事ではなかったのだが、まさか「ぽよ」なんてどこぞの変身少女ものにくっついてくる不思議生物みたいな語尾がつくとは思わなかった。休日の朝にテレビで流れるアニメの様な光景が現実で起きた、今朝のあの衝撃は忘れない。

「……なんだと」

 うちの猫を思い出していると、友人は低く呟いた。それから何かに気が付いた様に私を見つめ、ついで目蓋を閉じる。顎に手を当て、何かを思い出している様子だ。

「……そういえば、妹がいると言っていなかったか」
「え? ああ、うん。いるよ、高校二年生」
「……なるほど」

 何がなるほどなのか、にやりと唇を吊り上げる友人の顔は、まさに悪役顔である。友人の猫がたまにこの表情をするのは、明らかに友人の影響だ。その顔やばいわよ、と以前注意した時知らん顔で返事をしなかったので二度と言わないと思ったが、心の内では何度となく注意している。

「――次に会う時が楽しみだ」

 友人が何か呟いた気がしたが、ちょうど教授が入ってきたため意識をそちらに向けていた私は、聞き取る事が出来なかった。



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