典之がいた世界は狭い。
寝室が二つ、リビングがあって、キッチンがあった。
トイレと風呂は一応別に設置されている。
そのうちの寝室一つとトイレだけが典之の世界だった。
役立たずと罵られて殴ったり蹴られたりするのは当たり前。
食事はかろうじて水だとか気まぐれに食べ残しを与えられる程度だった。
外へ出ることは許されず、典之の世界で典之以外の人は母一人だった。
母はほとんど家に帰らず、外で男を作り男とともに生活しているらしかった。
時たま帰ってきた母がつけるテレビからの音で典之は外の世界の情報を得ていた。
けれどもその日は騒がしくて、いつもとは様子の違う母の泣き叫ぶ声で典之は目が覚めた。
寝ていたというよりは気絶していたに近かったが、母以外の人間が典之の部屋を
訪れ、もう大丈夫だよと優しく話しかけ、数人で典之を囲み、
母親の抵抗から典之を守っていた。
人間たちは見たことのない人達ばかりでそれからあっと言う間に救急車が呼ばれ、
典之は病院へ運ばれて、母は児童虐待を行ったとして警察へ連れて行かれた。
餓死寸前だった典之は見ず知らずの大人たちの看病によって、
最低限に活動できるまでに体力が回復し、その間に母から受けた虐待の数々を
たどたどしい口ぶりでゆっくり、時間をかけて説明するはめになった。
生まれてからほとんど教育と言うものを受けていなかったので簡単な会話しかできなかったのだ。
もちろん読み書きはできず、典之を連れ出した大人たちが少しずつ少しずつ教えてくれた。
ただ、あの幸福堂の話をすると大人たちは不思議そうな表情をする。
それは夢だよと教えてくれたが夢にしてはとても鮮明で現実味のあるものだったのだ。
それ以来典之はその夢の話をすることはなくなった。
夢だったとしても典之にとってはあの幸福堂での出来事が自分を救ってくれたのだから、
自分だけが覚えていればいいのだ。

「寝てんの?」

少年はまるでずっと前からそこにいたかのような口調で現れた。
最低限の活動ができるようになったからと言ってもまだまだ検査が必要らしく、
暫くは入院生活が続くらしい。

「起きてるよ」

「会いに来るって言ったろ」

「うん。嬉しい」

「外はいいだろ」

「うん。気持ちがいい」

「もっと早くから出ていればよかったのに」

「ありがとう」

ようやく少年を見たような気がする。
朝顔と言う人物がよく思い出せなくて典之はてっきり自分が
忘れてしまったのかと思っていたがそうではなかった。
その存在はしっかり覚えているのに容姿だけがあいまいだったのだ。
ただ一度、大きな狐の姿で現れた朝顔だけはしっかりと覚えていたのが不思議だった。
けれどそれは当たり前で朝顔は典之が朝顔を認識するために人の形を成していただけであって
最初から狐だったのだ。

「朝顔って妖怪?」

「さあ?」

「じゃあ神様?」

「そりゃあ神様に失礼だ」

「俺には神様みたいだけど」

壁に立てかけてあった来客用のパイプ椅子にどかりと座った朝顔は
毛の一つも生えていないようなすべすべの肌を普通の人間と同じように
今流行りの服装で包んでいて、くっきりした顔立ちの整った少年だった。
少し開いてる窓の隙間から流れてくる風にさらさらした髪をなびかせて
典之を優しいまなざしで見つめてくる。

「俺、連れて行かれる?」

「誰に」

「朝顔に」

「なんでだよ。折角外に出たのに」

「ほら、神隠しみたいな…」

「馬鹿」

馬鹿は朝顔の口癖のようでベッドで横になっている典之の頭を優しく撫でた。

「俺、お前に助けられたんだよ。その恩返ししただけ」

「恩返し?」

「小さいときに、狐に食べ物分けただろ」

「覚えてない」

「じゃあ思い出さなくていい」

朝顔は機嫌を損ねる風でもなく当たり前のように言った。
もともと覚えているとは思ってなかったらしい。

「典之が生きているだけで俺は嬉しい」

「ありがとう、朝顔」

あの小さく暗い世界で笑った記憶はほとんどなかったが
典之は久しぶりに笑った気がした。
やっぱり外に出られてよかったのだ。
怖いことは何もなかったのだ。

「…神格化するとさぁ、性別関係なくなるんだけど」

「?」

唸るようにつぶやいた朝顔に典之は首を傾げるしかできなかった。



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