好きになったかも、しれないんです。
わたしが屋外での自主練を開始して、ちょうど1週間がたった水曜日。幸いにも、この目立たない屋外のハーフコートに、見物客、もとい野次馬は一人も現れなかった。もちろん、先輩のにやにや顔は忘れられないんだけれど。2回だけ、流川くんも来た。噂が立って4日目には、体育館の野次馬もほとんどいなくなっていたらしく、きっと、多分流川くんは、体育館での自主練を再開している。

(……雨か)

水曜日の名前にふさわしく、数えきれないほどの水滴が教室の窓を激しく叩いていた。昼休みのチャイムが鳴って、男の子たちが購買へと走る。女の子が数人、お弁当を食べるために机をくっつけた。

「今日は自主練ないの?だったら花子も一緒に食べない?」

友人に声を掛けられた。先輩に課せられた自主練の課題が無いわけではない。つまり、あるかないかで言えば、自主練はあるのだ。それでも、外はバケツをひっくり返したような雨。例のハーフコートは使えない。そうすれば、使うのはもちろん体育館になるわけだけれど――

「ごめん。自主練あるから行かなくちゃ。また今度ね」

なんとなく、あの人のいるであろう場所に自ら向かうのには、葛藤みたいなものがついて回るような気がしてもやもやとした。それでもわたしは、いつも通り、サンドイッチとバスパンとバッシュを引っ掴んで教室を出た。いつも通り、歩きながらサンドイッチを頬張って、いつも通り、角のゴミ箱にサンドイッチの包み紙を捨てて、いつも通り、体育館前の女子トイレでバスパンを履いて、1週間ぶりに、体育館の扉を開いた。

「む」
「お、お邪魔します」

いつか、わたしが男子生徒3人組に受け渡したゴールの下には、予想通り、流川くんがいた。ああ、嫌だなあ。小走りで体育館倉庫に駆け込んで、ボールの入った籠の前でひとつ、ため息をついた。それでも、来てしまったものはしょうがなくて、ボールをひとつ手に取る。湘北高校女子バスケットボール部の油性マジックの文字が、薄暗い体育館倉庫でぼんやりと見えた。

「向こうのゴール借りるね」

自然に自然に、と思えば思うほど、なんだか不自然になってしまうのは、どうにかならないものだろうか。言わなくていいような一言を落として、無人のゴールの下で、履きかけだったバッシュの紐を括った。
体育館にあふれんばかりだった野次馬は、ほんとうにきれいさっぱりいなくなっていて、靴紐を括る私の耳に届くのは、あの人がもてあそぶバスケットボールの音ばっかりだった。よし、と小さく漏らして立ち上がる。それは、決意のような、何かを吹っ切るような、けじめのためのような、一言だった。

「おい」

そんなパッションブレイクも虚しく、ふたつドリブルを突いたところで掛けられた声に、わたしは振り向くしかなかった。声の主は、もちろん背の高いあの人で、心臓がたくさんの血液を送り出したのがわかった。緊張の糸がピンと張りつめて、シュートどころではなくなってしまう。どうか、下手くそのわたしのことなんて放っておいてくれと思うのに、何か、高揚感のようなものが、体育館の冷たい空気と一緒にわたしにまとわりついて離れなかった。

「ずっと外のコートでやってたのか」

流川くんは、大きな右手でボールを遊ばせながら、決して大きくないその声を体育館に落とした。自主練のことかどうか聞き返す前に、そうだよと肯定するよりも前に、どうして流川くんがそんなことを訊いたのかが気になってしまって、返事を忘れて疑問を返した。センターサークル越しに、流川くんがムスッと眉根を寄せたのが見えた。同時に、最近みねーから、とさらに小さくなった声をぼそりと零した。

「うん、野次馬が、ね」
「2、3日したらいなくなった」
「あ、そうなんだ」
「外より中の方が上手くなるのに」
「そうなの?」

いまだに、左胸がうるさい。流川くんは小さく頷いて、なんで中でやらなかったんだ、と零した。野次馬がいたから、なんてのは、嘘じゃないにしろ、今となっては二の次だった。外のコートにこだわった理由なんて、そんなの、流川くんのせいだというのに。もちろん、流川くんは悪くないんだけれど。言葉を濁し続けていると、ほんの少しだけ大きな声で「なんで、」と流川くんが言った。そんないつもとは違うような彼に驚いた勢いそのままに、流川くんが上手すぎて気が引けるから、緊張するから、そんなことをすらりと口にしていた。恥ずかしくて、外の土砂降りの雨のように、一気に捲し立てる。それでも、気になったことにはとことん執着するんだろうか、言ってしまってから、帰って冷静になった頭でぼんやりそんなことを考えていた。

「あ、ちょっと、おい」

流川くんが、小走りでこっちにやってくるのが、見えるような、気がする。あれ、ちょっと待って、わたし、どうして

「なんで泣く、おい」

緊張の糸が、ぷつりと切れたからだろうか。なぜか、悲しいわけでも痛いわけでもないのに、涙が止まらなくなった。ごめんね、なんでもないから、練習していいよ、と口からはいつも通りの言葉が漏れるのに、目から、いつもと違う涙が零れて止まらなかった。目の前の流川くんは、見たことのない何かを見るように、クールな風評とは裏腹の表情を行ったり来たりしている。

「ごめん、どうしたんだろ、わたし」
「……俺も、うまくねーから、バスケはじめたての時、とか」

耳を疑って、上を見上げた。眉間に深く深く溝を作った流川くんが、頬を掻きながら口を開いていた。私の頬を伝う涙の流れが止まったような気がして、右手で目を擦る。もう涙は続かなかった。それでも、流川くんはまだ、言葉を続ける。

「流川くん、えっと、」
「初心者だから、オメー、えっと……花子も……」

苗字、知らねーから。わたしがぽかんと口を開けていると、流川くんは小さくそう続けて、そっぽを向いた。ほぐれ始めていた緊張は一気に解けて、胸が妙に暖かくなった。どうして名前は知っているの、と冗談半分に聴くと、女バスの先輩が呼んでた、と歯切れの悪い返事が返ってきた。泣いていた自分が恥ずかしくて真っ赤になっていた顔が、さらに高い温度を持ったのがわかった。それでも、流川くんも同じような真っ赤なほっぺたをしていて、それがおもしろくて、くすりと吹き出す。流川くんはまた不機嫌そうに眉を寄せたけれど、ありがとうと言うと、こくんと頷いた。

「あのね、見てて」

そういうのに必要だった勇気は、前よりはきっと小さなものになっていたけれど、それでも、ほんの少しの勇気を振り絞ってそう告げてから、ミドルシュートを放った。わたしの手を離れた6号球は、今までで一番高い弧を描いてネットに吸い込まれた。振り返ったら、あの人はどんな顔をしているんだろう。




end.
20130310


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