廊下を全力疾走する愚かな野生児共に告ぐ [ 7/38 ]
卒業式が終わって、高校3年生は大学1年生となりつつあった。それはとても中途半端な時期で、湘北高校を卒業したばかりの山田は暇を持て余していた。友人は、県外に飛び出してばっかりで下宿の準備に忙しいと相手にはしてくれないし、大学の資料は読みつくしてしまったし、7畳の自室で寝転がっていただけでは暇は消えてはくれない。
足を天井へと振り上げて、落とす。その反動でよいしょと立ち上がってクロゼットを開いた。もう着ることも無くなるであろう制服が、ハンガーに吊られてだらりと伸びていた。それを引っ掴んで慣れた動作で身に着ける。なんとなくこっぱずがしくて、家族に会わないよう、小走りで家を飛び出した。
自転車を10分漕ぐと、3年ものあいだずっと通い詰めた校舎が、変わらずそこにあった。ほんの少しだけ、むず痒い気持ちを抱えながら、山田は校門をくぐり、昇降口を通り過ぎ、3年3組の教室へ足を踏み入れた。靴箱は、もう別の名前になっていたから、ローファーは脱ぎっぱなしにしてきた。窓際から2列目の前から3番目の席に座る。それが山田の高校最後の席だったからだ。椅子の高さが違うのに気付く。机と椅子は、別のものになっていた。
「わっ!?」
突然、聞こえるはずもない声が響いて山田は身を強張らせた。声の方を向くと、一緒に卒業したはずの三井寿が立っていた。ジャージ姿の三井は、びっくりしたあ、と胸に手を当てて、ずかずかと教室に入り込んできた。
山田と三井は、偶然にも3年間同じクラスだった。二人にとって、お互いはそれ以上でも以下でもなく、わざわざ喋ったりするような仲ではなかった。それでも、高校を卒業した今、二人の関係においてその偶然がなんとなく重要なことであるように感じるのは、山田だけではなかった。
「山田さん、何してんの?」
「いや、暇だったから、先生に会いに来たついでに教室来てみた、っていうね」
「あーそう、よくわざわざセンコーに会おうと思うな……」
「本当に暇だったの。三井くんは?」
「ん、OB戦。ついでに教室来てみた。早く着いちまったし」
一緒だな、と三井は笑った。クラスもずっと一緒だったもんね、と山田が返す。ついでに「2年の時は一緒だったのか微妙だけど」とからかった。卒業前には、決して触れなかったような話題だった。
「うるせえよ」
「ふふふ」
「ていうか、なんでお前制服なんだよ!ウケる!」
「えっ!いやだって、学校くるし!」
「もう卒業生じゃねーか。制服着て高校くる卒業生なんてみたことねえよ」
形勢逆転。三井は、してやったりと腹を抱えて笑った。山田の顔は真っ赤だった。
「う、うるさいな。笑うな!」
「だって、お前!わはは、冗談きついって!」
「怒るよ!」
「わりぃわりぃ」
つい1か月前まで自分も着てたくせに、と山田は漏らした。つい1か月前まではこんなに仲良く喋ることもなかったし、こんなに近くで彼を見つめることもなかったなあ、と同時に思う。椅子に座った山田とその横に立った三井の身長差は、赤ちゃん一人分くらいは優に超えていて、山田は首が少し痛いことに気が付いた。
「お前は出ていかねえの?」
「えっ?」
「神奈川。大学、神奈川の大学行くの?」
「あ、うん。自宅通い」
「俺も。意外と少ないよな、自宅生」
「うん。また三井くんと一緒かあ」
「んだよ、不服かよ」
「いやいや、そんなことないよ」
にわかに、教室の外が騒がしくなった。三井の名前を大声で叫びながら、大名行列よろしくぞろぞろと連れ立って歩くのは、湘北高校の看板と成り上がったバスケ部だった。教室の後ろ側、山田と三井が入ってきた引き戸の前に差し掛かった、赤い頭の桜木が大きな目で教室内の2人をとらえた。
「あー!ミッチー発見!遅刻だぞ!」
「うわ、まじかよもうそんな時間……」
「つか三井サン!誰っスか!?まさか彼女!?」
三井の言葉をさえぎった宮城の一言に、もともと十分うるさかったのが、これでもかと言うほど更にうるさくなった。3年の赤木が木暮にあいつは誰だと聞いているのが山田に見えた。木暮が山田さんだよ、と答えるのも。弾かれたように恥ずかしくなって、否定の言葉を叫んだ。それは、三井の大声にかき消され、誰の耳にも届かなかったけれど。
「るせぇぞてめえら!」
「ぎゃー!ミッチーが切れた!遅刻の分際で!!」
「切れると怖いぜ!ニゲロっ!」
「否定、しねーんすか」
クールな流川までもが無駄口を一つ残して走って逃げて行った。木暮が早く来いよ、と言い残して、巣に棒を突っ込まれた蟻のように一目散に走って逃げた後輩たちの後をゆっくりと追う。赤木もそれに続いた。
「たっく、アイツら……」
「す、すごいねバスケ部……」
「なんかすまん。気にすんな」
「えっ、あ、うん」
「じゃあ俺も行くわ。OB戦勝ちに!あ、見に来る?」
山田はまだ恥ずかしくて、先生に会いに行くから、と誘いを断って腰を上げた。
二人、自然に並んで歩き、階段を一番下まで降りたところで少しだけ足をとめる。体育館と職員室は校舎の正反対にあった。
「じゃあ、俺は体育館だからこっち」
「うん、じゃあ」
「おー、またな」
ま・た・な。
そんな軽いあいさつに山田は違和感をもった。三井はすでに体育館へと走り出している。わたしたちは卒業するのに、と思った。もう少しで、三井は角を左に曲がる。山田は、すう、と息を吸い込んだ。
「三井くん!」
三井の脚が、ぴたりと止まる、ゆっくりと、振り返る。
「会えてよかった!楽しかった!」
山田の大声に面食らった三井は、ゆっくりと口元をゆるめて、耳の後ろを掻いた。山田の言葉は今日のことを言っていたが、三井はこの3年間のことだと大きく勘違いをした。自宅通いならいつでも会うだろ。そう思って、緩む口元を開いた。
「もう、制服で出歩くなよー!またな」
今度こそ三井は角を曲がって行った。もう一度聞こえた「またな」は三井にとってはただのバイバイだったが、山田はなんとなく嬉しかった。再会の約束をしてくれたように感じた。お互いに勘違いをひとつずつしたまま、それぞれの向かうところへ廊下を走った。山田はそのまま、昇降口に脱ぎっぱなしのローファーを履いて、自転車にまたがり、全速力で帰路についた。
まだ肌寒い3月21日、二人が湘北高校3年3組の教室を訪れた、最後の日だった。
企画「尖ったナイフ」提出