無雲
「ここは―」
高山が失っていた気を取り戻す
目の前には悠悠と広がる灰色の空間
それはいつかの釜鳴りの世界を髣髴させた
意識が朦朧とし、状況を飲み込むのに少し時間が掛かる
「たしか…戸田さんと松岡さんがいたような…はっ春弥くんのお母さんは!?」
「ここよ」
「!!?」
背後から聞き覚えのある声が聞こえ、振り向くとそこに探していた人物がいた
「さぁ、おいで…」
高山は両手を広げて待ち構えているその女性の胸元に寄りかかる
「もう私達を邪魔する人はいないのよ」
「邪魔?」
「そう…」
催眠にでもかかったかのように高山の瞼がだんだんと落ちていく
高山の両腕は既に女性の身体に回されていた
「さぁ、部屋に来た時の様に私を呼んで?」
「…さん」
「そう、もっと呼んで?」
「母さん…母さん!っ…」
その名を呼ぶたびに高山の妖力が奪われていく
当の本人はそれに気付いておらず、狂ったように何度も何度も呼び続けた
女性の邪気はみるみる濃さを増し紫から黒へと変化していった
『あぁ…もう少しだ女…もう少し妖力があれば 息子が戻る…』
「っ……」
女性には別の人物の声が聞こえていた
*
死んだ息子と一緒に暮らせるの?
そうだとも
あの小僧は人間じゃない
妖怪なのだ
妖…怪!!?
そう
どうだ?
妾と取引をしないか?
*
「私…息子と一緒に暮らしたい!」
「!!?」
『だったら…妾の言う通りにするのだ』
「母さん?なっなんだ!!?」
高山が顔を上げると"何か"が女性の身体に纏わりついていた
「あっ!!」
高山は身体をふらつかせながら女性から身を離す
「あなたはそんなこと…望んではいなかったのに何故…」
「気が変わったの…というかあなたが変えさせたのよ」
「!!僕が…」
「そうよ?」
「くっ……」
高山の作戦は失敗だった
女性の欲求、つまり高山が息子の振りをすれば命を絶つことなく立ち直れると信じていた
「あなただって…」
「えっ!?」
「母親がいないあなただって、随分私に甘えていたじゃない」
「……そ…それは……」
確かにその女性の言う通りであった
高山も少なからず、顔も知らない母親の存在を女性に重ねて過ごして来た
毎日、約束の時間が待ち遠しかった
本当に楽しかった
それを今、全て失うのは―
でも
「確かにそうです…でもっでも春弥くんの為にもあなたは生きなくてはいけないんです!」
「………」
「だから…息子さんと一緒に暮らしたいなんて言わないでください!」
高山は自分が勘違いをしていることにまだ気付いていなかった
*
取引?
簡単なことよ
あの小僧を部屋に招きいれ
鏡の前で抱き寄せるのだ
それだけで息子が…
そうだとも
あなたは誰なんですか?
妾は無女
*
『無駄な時間だ…はやくするのだ』
無女の声が女性の頭の中に響き渡る
高山の元へ向い再び抱き寄せようとした時だった
「僕だって…一緒に暮らしたいですよ…生まれてから…一度も見たことがない…母さんと…」
「!!?う…まれてから…いちども……」
「っ……ぅ……」
高山は感情を曝け出し涙を浮かべながらポツリと口にしたその言葉はある人物の心を動かし始める
『なんだ!?邪気が消えていく!?』
無女が声をあげる
『お主…何故願わぬ!?』
「…私…なんて酷いことしたのかしら…」
女性の目からは高山と同じ透明な雫が滴る
「私よりもあなたの方がもっと逢いたいはずなのに…その想いを踏みにじってまで私は…」
「でもそう思わせてしまったのは僕が―」
「いいえ、本当は違うの」
「!?」
「ある人に息子と逢える方法を言われて…それであなたを騙してしまったわ」
「誰に…言われたんですか?」
『名を呼ぶな…妾の名を呼ぶな!!』
「今も私の中にいる…」
*
約束?
そうだ
どんな約束?
何があっても妾の名を呼ぶな
もし呼んだら
お主の魂を貰う
*
「!!?春弥くんのお母さんの中にいるやつは誰だ!」
女性の目にもう迷いは無かった
「無女よ」
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