薄れ行く記憶
「お母さんってどんなの?」
午後五時だった。夕方だというのに外はかんかんと明るく陽が照っている。夏の午後はあっけない。じりじりと肌を焼くような日差しは夜が近付くごとにその影を薄くして、次第に陽の光が弱くなる。空が夕焼けに染まることもない、落ちた太陽に肌寒さを感じることも少ない。生あたたかい熱風が小さな体を汗ばませている。前髪を額に張り付けて、擦りむいたらしい肘のかすり傷には目もくれず、番傘を放るようにしてサンダルを脱ぎ捨て、神楽は台所でキュウリを輪切りにする彼のもとへ走り寄る。そして言う。目をくりくりとさせて、声を弾ませてさえいる。
「おまえ、かーちゃんのこと覚えてるっつってたろ」
まず手を洗え、彼はそう言って腕を伸ばし蛇口を捻る。神楽は無言でしっかりと頷いて、爪の間の泥汚れを取ろうと踵を浮かせる。右手の爪は左手の指で、左手の爪は右手の指で。
「ウーン……いつもあんまり思い出してないから、思い出せなくなっちゃったアル。そういうことってよくあることヨ。時々思い出すのを忘れたら、すぐ思い出せなくなるアル」
「どんなのって、かーちゃんはかーちゃんじゃねえの。世話焼きで口うるさくてよ、そんで自分の子どもが可愛くて仕方ねえんだろ。だいたいのかーちゃんは、多分」
彼はひどくよそよそしく言って、蛇口を締める。神楽は彼の顔をじっと見つめて、それから彼の背中に濡れた両手を擦り付ける。
「姉御みたいな?」
「姉御っておめえ言ってるじゃん。あいつは姉だろ、姉。つーかそれお妙に言うなよ、いくらおめえでもどつかれっからな」
あと俺の服で手拭くのやめろっつったよね、と彼が釘を刺すその前に、神楽がなおも引き下がる。流し台に怪我していない方の肘を置いて、頬杖なんかついている。彼は、そんな表情をどこで習って来たんだと言いたかった。気難しげに目を細めて、いっぱしの面構えでくちびるを尖らせている。
「じゃあ、下のバーさんみたいな?」
「それもおめえバーさんっつってんだろ。あれはかーちゃんじゃなくてバーちゃん」
「じゃあ誰ヨ。誰がかーちゃんなのヨ」
いきり立ったように神楽が彼の腕を揺さぶり、その場で地団駄を踏む。額に張り付いた前髪は、昨日彼が切ってやったばかりで新八からは好評を博したが、神楽にはいたく不評だった。青白い足首に跳ねた泥が乾いて、神楽が動くたびにぱりぱりと剥がれ落ちている。
「かーちゃんなんてそう安々いていいもんじゃねえの。誰のかーちゃんも一人だけだろーがよ。おめえのかーちゃんだっておめえが覚えてるかーちゃん一人だ」
この話は終わりだと言わんばかりに、彼は神楽の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。キュウリで青くさい彼の左手を、神楽は不満そうにしながらもされるがままにしている。
「だからそれを忘れたって言ったアル」
「奇遇だな。俺もだよクソガキ」
不貞腐れた二人の今日の夕飯は、鶏つくねのハンバーグにシャキシャキサラダ。綺麗な輪切りのキュウリを添えて。



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