逃げちゃった

 二人はデッキの上にいた。船内は和やかな空気に包まれ、老夫婦がステージ上の小さな踊り子に拍手を送り、年頃の姉妹はハンサムなウェイターを熱心に見つめている。食後のデザートを断って、彼女がテーブルナプキンでくちびるの端を押さえる。豪華客船の食事にドレスコードは付き物だ。流れるような黒髪は、ブロンドばかりの中でそれ自体が何物にも代え難い装飾品となって彼女の肌をより一層白めかせている。真珠も宝石もない、濃い青緑色のワンピースに軽いゴールドのパンプスがよく似合っている。欧米人ほどの華々しさはなくとも、凛と匂い立つような存在感は、もっぱら崩されることのない表情とあいまって東洋人の理知的な美しさを際立たせていた。
 彼女が席を立とうとするのを見計らって、向かい側に座っていた男が立ち上がる。痩身ではあるが程よく男性らしい体格の垣間見えるダークグレーのスーツ、シンプルな銀色の腕時計をちらと一瞥し、一流ビジネスマンのような革靴を颯爽と動かした。彼女の椅子を引き、それからいたって自然な所作で腕を差し出す。ウェイターの一人がこの男女を目に留めて、“Thank you, Mr.&Mrs.Nakura.”と日本風に一礼し微笑む。皿の影には、チップのドル紙幣が隠れていた。
 そして二人はデッキの上にいる。静かな夜の海を、彼と彼女は眺めている。彼は手すりに背中と両肘を預けて、たまに夜空を見上げたりもしている。星の輝きを邪魔するものは何もない。真っ暗な夜空に無数の光が浮かんでいる。

「ねえ波江さん、こういうのはどうかな」

 潮風に散らばる彼女の黒髪を見つめ、何か突拍子もなく面白おかしいことを閃いたとばかりに人差し指を立てると、彼が口を開いて話し始める。精悍な顔立ちに子供っぽいあどけなさが残っていて、それが彼の魅力でもあった。

「俺は今から君を攫って、誘拐犯になる。ひとしきり愉快犯の真似事を演じた後、俺たちは乗客たちの目の前で船上から忽然と姿を消すんだ。乗客が二人。船は大騒ぎになる。適当に身代金なんか要求してみたりする。一億、それとも十億かな。ワイドショーは消えた誘拐犯と人質の美女について連日根掘り葉掘り報道する。そのうち俺たちが揃いも揃って偽名を使ってることがバレるかもしれない。その方が面白い。奈倉氏両名は名実ともに仮面夫婦だったわけだ。身代金を華麗に頂いて、当の俺たちはどこか遠いところで情報屋をやる。俺にはそれしか芸がないんだ。この顛末はあんまりドラマチックではないけれど、幾分現実的ではあるだろう?」

 彼がその物騒な夢物語を話す間、彼女は黙ってそれを聞いていた。ふっと瞳を伏せ、そして彼と同じように手すりに背を預けると、彼女は呆れたように首を振った。また始まった、とでも言わんばかりの仕草だった。今度は彼女が口を開いた。

「あなた、犯罪者になりたいの?」

 まさか、と彼が至極楽しそうに横槍を入れる。

「それじゃあマジシャンかしら。船から姿を消すなんて、どうせ救命ボートで必死になって櫂を漕ぐんだわ。種も仕掛けもないじゃない。だいたいあなたの身元が割れた時点で、明日機組あたりから警察に口止め料でも渡るでしょうよ。それに公には死んだことになってる私を人質に取ったところで、どこから身代金が出るって言うのよ。人質ならこの船に乗っている乗客全員、くらい言ってみせたらどうなの? ま、唯一賛同できる点は、そうね、あなたには情報屋しか芸がないってところくらいかしら」

 彼女の言葉に、彼はぽかんと何度か瞬きを繰り返し、それから何か心得たかのようにはは、と笑った。可笑しいというよりは、愛しいものを見るように。

「やっぱり俺は君が好きだよ。そういうところ。君を攫いたいってのはあながち嘘じゃない」
「あら、私は嫌いよ。こんなテロリスト予備軍、今すぐ海に沈めばいいわ」
「つれないねえ」
「お生憎様。もう攫われたようなものでしょ。この船、一体どこに着くのよ」

 デッキの上には、夕食を終えた乗客たちがぞろぞろと集い始めていた。先程ウェイターに見惚れていた姉妹が揃いも揃って口の端にラズベリー・ソースをつけている。今日のデザートはフルーツ・パンケーキだったのだろう、と彼には察しがいった。

「さあ。どこか遠いところ、かな」

 考え事をしているらしい彼の横顔をつまらなさそうに見やって、彼女は目の前の老夫婦がそうしているように、彼の前に回ると、その後頭部をダークグレーのスーツにぐいと押し付けた。彼の腕が柔らかな力をもって彼女の腰にまわり、背後から感じる鼓動に目を閉じる。

「再就職先があるだけマシね」

 彼女なりの目一杯の戯れは、管弦楽団が奏でる美しい調べに乗って、闇夜の海へと溶けてゆく。
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