罪のこどもたち
宿舎から少し離れた場所にある物置小屋へと向かって、彼女はゆっくりと歩を進めていた。消灯時間をとっくに過ぎた真夜中の闇を、右手に提げたキャンドルランプが煌々と照らし、彫りの深い彼女の鼻筋に濃い影を映し出している。くたびれた麻のシャツから覗く痩せぎすな鎖骨、裾の短い細身のスラックスは彼女が半ば無理やりコニーから奪い取ったものだが、丸見えとなった両のくるぶしを本人は特に気にする風でもない。安物の皮靴を軽く引っかけて、それでも物音ひとつ立てない彼女の動きに、実際ベルトルトは彼女の手が自身の肩に置かれる直前でさえ気付くことができなかった。

「よお」
「ユミル…」

物置小屋の階段に腰掛けていたベルトルトは、ばつの悪そうな顔で彼女の名前を口にした。乾ききった薄い唇にはひびが入り、彼女が彼の顔にランプを近付けるほど、ひどく情けない陰影をその顔に落とすこととなった。ベルトルトを見下ろしながら、彼女もまた同じように階段に腰を下ろした。彼女は彼が腰掛けるところよりも一段低く、午後中ひとしきり降った雨であまり湿っていないところを選んだ。

「わりぃな、待たせちまって。あいつ…クリスタにバレちゃあ何かと面倒でよ。寝かしつけんのが大変だった」
「こっちこそ、本当にごめん」

彼女はそうやって謝るベルトルトの顔を、今度は見上げるようにまじまじと見つめた。慢性的な栄養失調で顔は鈍い土気色をして、黒々と深い瞳の奥底はとても彼女に計り知れるものではない。同じ黒い瞳であっても、ミカサやマルコのそれのような黒曜石と見まがうほどの艶めきは到底掬い出せそうもなく、ベルトルトの瞳は黒檀の堅さ、表面が少しざらついた樹皮の質感を彼女に思い起こさせた。あまり心地いいもんじゃねえな、と彼女は胸中を不穏にざわつかせながらも、目を背けられずにいる。

「それで、僕は何をすればいい?僕にできることなら、その、頑張るつもりはできている」

気後れした様子は否めないが、それでも意を決したようにベルトルトはじっと自分を見つめる彼女に問いかけた。彼女は一瞬訳がわからないといった困惑した表情を形作り、それから合点がいったのか、何故かけらけらと笑い始めた。ベルトルトはじっと黙ったまま彼女が何か話してくれるのを待ち、その忍耐染みた苦痛の表情にさえ彼女はちっとも遠慮することなく笑い声をあげた。

「取って食われるとでも思ったか?」

笑いのおさまった彼女は一転して、それまでの思考を気取らせない得意のニヒルな声色でそう言うと、ごそごそとスラックスのポケットに手を突っ込んだ。丹念に磨かれた石独特の擦れる高音がして、開かれた彼女の掌には幾つもの小さな珠と、一つの十字架が乗せられている。

「だいたい想像はつくと思うけど、私は無器用でさ」
「これを、元通りにすればいいんだね?」
「頼まれてくれるか?」

今度は後ろのポケットから、刺繍糸をぐるぐるに巻き付けた縫い針を取り出して、彼女が首をかしげる。そんなものを尻ポケットに入れて隣で平然としていたなどとベルトルトには甚だ信じ難く、窘めようとも考えたが今はやめておくことにした。代わりに、彼は神妙な面持ちでそれらを慎重に両手に受け取ると、深々と頷いて答えた。

「ああ、もちろんだ。こうなったのも僕のせいだから」

教官に指名されたときよりも数段厳粛なベルトルトの表情に、彼女は内心やっぱり少しだけ笑った。


彼女がその日、対人格闘術の相手にベルトルトを誘ったのは気まぐれとほんの僅かな好奇心だった。戯れのようなクリスタとサシャの組み合いを横目に、彼女は教官の注意が此方に向いていることに気付いた。上位十位以内の特等席に用はないが、懲罰房や開拓地送りは真っ平御免である。仕方なしにうろうろと歩き回りながら相手を探していると、ふと視界に周りより一回りも二回りも大きな姿が目に入る。猫背気味に背を曲げて、誰に声をかけるわけでもなく訓練場の隅で人目を忍んでいる。ベルトルトだった。彼女は彼に声をかけた。そうしたのは初めてだったが、彼女は根拠もなく彼に勝てると自負していた。ベルトルトは彼女の挑発的で俊敏な動きを戸惑いなからも全て避けきり、それに苛立った彼女がほんの細やかな隙を見せたのだ。ベルトルトは彼女の手首を掴み、捩じ伏せた。少し力を入れすぎたと思ったその途端、彼女の手首、正確に云うならばその袖口から、数珠玉のようなものが弾け、飛び跳ねた。それは確かにロザリオだった。彼女はその重みで唯一垂直に落下した十字架を拾い上げ、程無くして無言で数珠玉をかき集め始めた。ベルトルトは咄嗟に謝り、彼女と共に膝をついて数珠玉を拾った。幸い周囲の訓練兵たちは二人に見向きもしない。それは美しいロザリオだったはずだ、ベルトルトは何度も謝った。終業の鐘が鳴った。二人は立ち上がり、ベルトルトは彼女の許し、或いは怒りを待った。彼女は何でもないようにして、謝る必要はないと首を振った。そして、今日の真夜中、物置小屋の前に来てほしい、とも。取って食われるとまでは思わなかったが、ベルトルトがその後の夕食を全部サシャに譲ったのは、言うまでもない。


「ユミル」

彼女は、ベルトルトが刺繍糸に数珠玉を一つ一つ通していくのその手元を眺めていた。千切れてしまった大切なロザリオが、ベルトルトによって修復されていくその様子。彼はもう一度彼女を呼んだ。極めて感情に乏しい、淡白な物言いだった。

「ユミル。君は神を信じているのかい」
「ベルトルさんはどうなんだよ」

彼女は質問でもって彼の問いかけに答え、折り曲げた膝に肘をつく。ベルトルトは空を見上げた。暗闇の中に、あたかも彼の思い出が映像となってまざまざと甦っているかのように。

「…父さんと母さんは熱心な信教徒だった。故郷にいたときは毎日のお祈りも欠かさなかったし、日曜日にはミサに行った。故郷ではみんなそうだったから、僕は何の疑いも持たずそれに倣っていた。幼心ながら神に感謝し、神に問い、神に許しと教えを乞うたよ。でも、あんなことになってからは…その、」
「…そうか」

ベルトルトは彼女の相槌を聞くと、それ以上言及する必要はないと悟った。誰も彼もが罰を受けている。彼は再び縫い針を手に持ち、数珠玉を繋ぎ止めていく。

「私は、はなから神なんか信じちゃいねえよ。あんたの親父さんやお袋さんには悪いが、そんなもんくそくらえだと思ってる。死ぬほどまずいパンと水臭いスープで、来る日も来る日も腹ばかり空かせてよ。ここを出ても、さぞご立派な王様の言いなりになるか、貧民共から巻き上げた税金でのうのうと安酒食らうか。はたまた巨人に食われるか」

ぼう、と生ぬるくも強い風が吹いた。彼女のキャンドルランプからあっという間に火が消え、辺りはとうとう暗闇と静寂に包まれる。それでも、ベルトルトからは彼女の横顔がとても美しく見えた。夜が白んでいるせいだ、と彼は思った。

「教会ってのは、なかなかいいところだよ」

彼女がすんと鼻を鳴らして言う。

「妙に気取った神父が偉そうにしてさ、ワイングラスに並々の水をくれた。ここのより随分うまいパンもだ。チーズと、それから干し葡萄なんかも挟まってたな。そこからくすねた銀食器は、そりゃ高く売れたもんだ」

彼女はちらとベルトルトの表情を窺った。言外に彼を試すような、それとも自分を試しているのかもしれない。彼が引っ張っているロープの上で、私は綱渡りをしている。そう仕向けている。彼女は、彼によって再び形作られたロザリオへと手を伸ばした。黒々と連なる数珠玉は、ベルトルトの瞳そのものだった。そうか、と彼女は一人得心していた。それは罪を吸い込んできた瞳だった。だから目が離せなかった。私は罪だ。彼女は一呼吸置き、ロザリオを手にかけた。

「これも、その教会で手に入れたんだ。おこぼれにあずかった」
「きっと立派な教会だったんだろうね」

ベルトルトは、彼女が盗みを働く様子を思い浮かべ、それから優しい口調でそう言った。彼の通った教会には、水はあってもワイングラスなどはなかった。ましてや銀食器など、とても。古い木造の掘っ建て小屋に、今にも倒れそうな十字架。彼らは一様にそれが神だと信じていた。行ってみたいとベルトルトは願った。彼女の原点へ。銀食器を根こそぎ盗まれた、豪奢で憐れなその教会へ。

「なあ。私、そのとき初めて、あんたの言うお祈りってやつを見たんだ」

彼女は西の空を背にして彼の前に立った。彼女の声はひどく感慨に震えて、それでも穏やかにベルトルトの鼓膜を揺らした。彼女は罪だ。ベルトルトは罪を見つめ、そして目を伏せた。

「こうやって、目を瞑って」

彼女の、ロザリオをかけていない方の手が、ベルトルトの頭にそっと触れた。

「あんたに」

この感覚が何なのか、ベルトルトはわからない。神父でも、母でも、神でもなかった。ユミル。罪。マリア。

「ベルトルト・フーバー。あなたに。“神の御加護がありますように”」

僕たちは逃れようもない罪の上にいた。
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