彼は帰らない。私のもとへ、そうして二度と。

 両手に溢れんばかりの花束を抱えた彼は、大層苦心して池袋駅の改札を通り抜ける。帰宅ラッシュの、黒っぽく色味に欠けたスーツや制服に身を包んだ雑踏の中において、瑞々しく弾けるような葉、そこから零れ落ちる鮮やかな赤、橙、黄、桃、白、水で薄めることをしない、原色のペンキをぶちまけたような毒々しさは見る者の目を引き、ある女子学生らがそれを贈られる女性を思い描いてきゃあきゃあと姦しい声をあげる隣では、五十もいかないサラリーマンの二人組が眉根を潜め、その花束の包装紙をかすめる近さでもって足早に通り過ぎてゆく。
 花々は一様にありきたりな形をしていた。中心には蜜が宿り、その周りをぐるりと花弁が囲っている。花弁は靴べらのような形、それよりも少し丸みを帯びて柔らかく、例えば花の絵を描く小学生が思いつくような平凡さで、彼の両腕に抱きかかえられている。その花の名前を、彼は知らなかった。通りすがる者誰もが振り返ったが、それでも彼らの内にその花の名前を知る者はなかった。ただ彼の纏う黒いジャケットと黒い薄手のインナー、それから黒いスラックスに上等な革靴が舞台の暗幕のようにして花束を際立たせ、人々は確かにそれを見つめた。ありきたりなようで、それはマーガレットでもバラでもガーベラでもなかった。カスミソウ、ユリ、スイートピーでも。
 彼は花束という抽象的な何かを持っていた。駅の構内で、彼の表情までを覗き込んだ者はついぞ現れなかったようだった。彼はいつだって黒々とその身を艶めかせ、影を縫うように孤独だった。どんなに美しい顔貌の造形をしていても、彼に妻や、愛人や、彼女、有体に言えば彼を愛してくれる者は現れなかった。それが彼の生涯だった。
 彼は噎せ返るような蜜の香りに鼻孔を擽られながら、少しだけ頭をぐらぐらとさせながら、そうして花束と共に贈る言葉を考えた。彼はふざけるのはやめにしようと思っている。告白でも婚約でもない、ただ、彼女を自分の元へ繋ぎ止める口実がほしかった、それは彼や彼女が知り、実行し、成就させようと願う愛とは甚だ縁遠く、しかし人はそれを概ね愛と呼んだ。
 彼女は気難しく、無口で、頑なな女だった。それは男性的であり、女性的でもあった。化粧っけのない質素な顔、それでも女ならば憧れるであろう白く肌理の細かい少女の肌、くすみのない薄いくちびる、上品に通った鼻筋をしていた。彼女はその部品一つ一つを、年老いた男が老眼鏡を頼りにドストエフスキーを読むときの厳めしさでもって、かの身を固持して生きてきた。彼女は女の執念とも言えたし、男の無慈悲そのものであるとも言えた。矢霧波江という女がたった花束一つでもって、彼の差し伸べる手にその細く鋭器のような指先を滑らせるとは、彼自身到底思えなかった。

「それでも、俺は君に花束を贈りたいと思った。君はとても冷たい人間で、かちかちと陶器みたいに硬いくせに、脆い。これは、そうだな。俺の自己満足だよ。最後にさ、君の困った顔が見たかったんだ。こんなものを貰っても嬉しくないって心底思っているような、君の、甚だ迷惑がっている顔。別に捨ててくれて構わないよ。放っておけば二、三日で枯れる。短い命だ。俺だって人間だから、最後の印象くらいはいいものを残したい。君という個人の頭に。ほら、終わりよければ全てよしって言うだろ。これでいいんだ。全て」

 彼はいつになく冷静で、そして饒舌だった。脈絡無く空を舞う言葉は次から次へと溢れ、花弁の中心へ吸い込まれていく。小さなスーツケースを足元に転がして、彼は玄関に腰を下ろし、新調したばかりの革靴を履いた。立ち上がり、一度振り返ろうと左に首を回したが、やがてゆっくりと何か空気中の微細な振動をも咀嚼せんばかりに、その動きを止めた。
 彼は今、お粗末な空想をしていた。空港に爆弾が落ちればいいと祈ったし、彼女が泣けばいいと思った。それは永遠だった。

「ずっと言いたかったんだ。初めて会ったときからだ。波江さんってさ、きっと世界一花束が似合うよ」

 彼が彼女の顔を見ることは終ぞなかった。永遠は今終わろうとして、悲しいほど残酷だった。
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