夏の終わり、日曜日

 今日だけで、正臣はもう二十八回もパソコンソフトのスパイダーソリティアに興じ、その内の二十三回を手詰まりで終わらせている。
 この部屋の主がいつも意気揚々と座している回転式チェアに深々と座り込み、(正臣の背の高さではやはり座高が低く、背もたれから連なる頭置きまでその金髪が届かないのである。)彼は忌々しげにゲームオーバーの画面を睨みつけた。連敗続きの記録が気に入らず、履歴を消して画面を閉じ、デスクトップに不規則に並んだアイコンを眺め、どれでも物色してやろうと適当なフォルダを開く。エクセルで作成された簡単な表に、アイスクリーム・チョコレート・キャンディ・ポップコーン等々、個数とも値段とも明記の無い数字だけが横にずらりと並んでいる。
 何だこれ、と正臣が思わず呟き、向かいのソファに寝そべってクロスワード雑誌に夢中になっていた沙樹が、んん?、とおざなりな返事を寄越した。情報屋だけじゃ飽き足らず駄菓子屋でも始めるつもりだろうか、と正臣は考える。男のニヒルな笑みを思い浮かべ、しかし彼はそれからすぐにそのあくどい顔をゲームの履歴同様、頭の中から完全に消し去った。
「波江さあん」
 そんな正臣の百面相を余所に、沙樹が膝から下をぶらぶらと動かしながら波江に声をかける。
「なに?」
「血流を良くして、えーっと、ホルモンバランスを調整するビタミンEの別称って、何ですか? コで始まって――」
「ムで終わるんでしょう。コハクサントコフェロールカルシウムね」
「うわあ、字数ぴったり。すごいです」
「それ、あいつの随分前のクロスワード雑誌じゃない?よくそんなもの見つけたわね。その作者、相当性格悪いわよ?」
 きつい言葉とは裏腹に、沙樹にかける彼女の口調はかつて正臣が聞いたことのないほどに柔らかく、彼は女性二人の会話にそっと耳を傾けた。
 沙樹もまた、まるで年の離れた姉に接するような甘えた声で波江との会話を楽しんでいる。台所に立っていた波江がソファに近付き、沙樹の肩口から雑誌を覗き込む。
「ここに入るのはワレマドリロン、それからトランシルバニア」
 と、指差すのを、沙樹がふむふむと頷きながらワレマドリロンワレマドリロン、と復唱してボールペンを走らせる。
 そしてほぼ無意識の内に掛け時計へと目を遣る波江の視線を追い、
「臨也さん、まだ帰って来ませんね」
 彼女の横顔を上目遣いに見上げた。沙樹は波江の返事を待たず、トランシルバニア、と気の向くまま歌うようにそう呟き、再び雑誌に向き直る。
 正臣と沙樹がここにいるのは他でもない、この部屋の主から直々に呼び出しを受けたためだった。約束の時間は午前十時であったが、二人がマンションを訪ねた九時五十分には臨也の姿はどこにもなく、代わりに訝しげな顔で玄関のチェーンを外した波江が事の経緯を聞き及び、約束をすっぽかされた憐れな二人をかの悪名高き牙城に招き入れたというわけだ。
 波江はこてんと首を傾げたままの沙樹の丸っこい後頭部を暫く見つめていたのだが、それから何かとても嫌な出来事を反芻するかのように眉間に皺を寄せ、一つ大きな溜息を零すと、蝶々の形に結んだエプロンの腰紐を乱暴に解いた。
 二人の様子をその部屋の一番の上座から見守っていた正臣は、波江が後ろ髪を纏めて薄いセーターの袖を捲り、どこか憤然とした足取りで洗面所へ消えていくのを見た。上司があれでは彼女もさぞ苦労していることだろう、と彼は同情を禁じ得ないのだが、この美人秘書も一筋縄ではいかないことなど一目会った時から勘付いている。協調性の欠片もない大のおとなが二人揃って、それでもお互い何だかんだ上手くやっているのだから驚きだというわけで、臨也はもとより、波江についてもまた、正臣はさっぱり理解できないでいた。
 沙樹は相変わらずごろごろと寝返りを打ちながら雑誌を掲げて、ボールペンを右耳に挟み口を尖らせている。沙樹の無防備な姿に、正臣は面倒な上司事情のあれこれを忘れ、可愛いな、と年相応に頬を少し赤くして、しかし珍しくその思いは胸の内に留めておくことにした。かくいう沙樹だって彼の視線にはとっくに気付いている。彼女はショートパンツから伸びる太ももを大胆にソファの肘掛けに乗せてみながら、スカートを履いてくればよかったな、とそんなことを考えている。日を浴びてもちっとも焼けない真っ白な両脚は時折正臣に荒んだ感傷を呼び起こさせたが、それでも今では彼女のちょっとした自慢の一つだ。
 うら若きカップルの淡く不埒な雰囲気をものともせず、リビングに再び顔を出したのはもちろんかの秘書、波江に他ならない。涼しい切れ長の目元に眉間の皺をより一層刻み付け、リビングを素通りし、彼女はそのまま玄関先に続く廊下へとスリッパを進めた。
「えーと、急にどうしたんですか?」
 二人顔を見合わせ、ぱたぱたと慌てて彼女を追って来た正臣と沙樹が、波江の背中に声をかける。
「あのバカが面倒なことになってる気がするから、先手を打っておくのよ」
 波江は今日一番のしかめっ面で正臣にそう返した。手には家中のタオルというタオルを抱え、それを玄関から洗面所へと続く廊下に一分の隙もなく敷き詰めている。ますます訳が分からないといった様子で思案顔を浮かべる二人に、暇ならあなたたちも手伝いなさい、と差し出されたバスタオルからは上司二人と同じ柔軟剤の匂いがして、正臣はその甘い匂いに問答無用で頷いた。





「……総出で出迎えなんて初めての試みじゃないか? 言っておくけど、それ程度で特別手当を出すほど俺は甘くないよ」
 玄関を開けた臨也は、自身の秘書を筆頭に横並びで腕を組む部下三人の姿を見止めるや、開口一番に嫌味を述べる。
 最近もっぱら高校生二人を手懐けたつもりが、秘書を見習ってはその実いいように、特別手当だなんだとカモにされていることを危惧した矢先である。自身のとてもまともとは言い難い金銭感覚を棚に上げて、彼は彼なりにこの未成年の部下二人を多少なりとも気にかけている。存分に身に覚えのある話で、今時の高校生は現金を与えられすぎているらしい。先週のワイドショー曰わく。
 我ながら大層部下思いのよくできた上司だと彼が首を振りながら靴を脱ぎ、一歩その足先をフローリングに乗せようとした刹那、
「ストップ。待ちなさい」
 そんな自画自賛を木っ端微塵に粉砕するかのごとく痛烈な一声が、臨也を思わず静止させた。
「わあ、すごい」
「波江さんの予想、大当たりっすね」
 固まる臨也をよそに、それぞれ勝手なことを言う沙樹と正臣である。臨也が首をひねり、この中で唯一自分の問いにも答えを寄越すであろう沙樹へと視線を向ける。 
「予想?」
「今日は大方、静雄さんと派手に遊び散らかして泥まみれで帰って来るだろうっていう予想です」
「……俺、わりと命懸けなんだけどな」
 不本意な答えに、苦虫を噛み潰したような声色で臨也が反論する。
「命懸けは結構。そのまま死んでくれたらなおいいのだけど、まずはその薄汚くて暑苦しい上着を脱ぎなさい」
 秘書はなお腕組みを崩さず、一刻も早く疲労しきった体を休めたい臨也が引き下がる。
「……波江さん、アイスコーヒー」
「脱ぎなさい」
 上司の要求も見事に却下。
「はい、臨也さん。こちらにどうぞ」
 用意周到に洗濯かごを差し出す沙樹の、なんと笑顔の眩しいことか。臨也はまだ玄関にいる。自分の家に上がれない。
「大の大人がみっともねえ」
「……ところで君たち、何でここにいる?」
 正臣の敬意の欠片もない眼差しを大人気なく跳ね除けて臨也がそう言うのを、信じられないとばかりに波江が呆れ声を出す。
「あなたが呼びつけたんでしょう。二人とも、もう朝からずっとここにいるのよ」
 お蕎麦ご馳走になりました、と沙樹がぺこりと頭を下げ、その横で正臣は相変わらずそっぽを向いている。臨也はそうだったっけ、と泥まみれの手で頬を掻き、そのせいで頬に新しく泥汚れができたのを波江が目ざとく見つけて溜め息を零す。
「ほら、脱いで」
「はいはい、わかったよ……」
「中まで汚れてるじゃない。後ろ向いて。……このズボンもだめね。洗濯じゃ落ちそうにもないわ。一体何をどうしたらこんな風に……」
「公園のベンチを投げられてね。まあそれはいつも通りなんだけどさ、問題はそれがペンキ塗り立てだったってことだ」
 上着を脱ぎながら、何故か誇らしげな臨也である。
「すげえいいセンス」とは正臣。
「波江さん、これ、クリーニングに出しますか?」
 沙樹は洗濯かごへと押し込まれた上着を楽しそうに覗き込む。
「捨ててもいいんじゃない?同じようなの、四、五枚はあるもの」
「クリーニングだよ、クリーニング!」
 上司の必死の訴えも、彼女の前では子供の我儘と等しい。 
「あなたには聞いてないわよ。ほら、さっさと脱いで」
「もう脱いだ」
 VネックのTシャツ姿で玄関から動けない臨也が、ふてくされてトレーナーを放り投げた。こうなったらやけである。女性陣二人は黒ずくめの衣類をああだこうだと酷評し、いつの間にか洗面所へ小走りで駆けて行った正臣が、三人のいる玄関先へと声をかけた。
「波江さーん、風呂、換気扇のスイッチってどこにありますか?」
「洗面台の鏡の右よ」
「うわっ」
「左のスイッチを切ったでしょう、あなた。待って、今行くから」
 そう言って波江がこれまた小走りで洗面所へ向かい、取り残された二人、臨也と沙樹は本日の司令塔である彼女が戻って来るのを暫く待った。やがて口を開いたのは沙樹である。
「臨也さん。今からお風呂なんですよ?」
「……そうみたいだね」
 言外の沙樹の眼差しに、臨也が目を見張る。
「ズボンも脱がせるつもりかい? ここで、玄関で?」
「だって、クリーニングに出すって」
「でもここで脱ぐ必要はないんじゃないかな。ここで脱ぐ必要はないんじゃないかな!」
 ちょうど洗面所から波江がひょっこり顔を出して、珍しく焦る情報屋はこれでもかと縋るような眼差しをかの秘書に向けたのだが。
「あと、それと靴下もね。脱いだら洗面所に連れて来てちょうだい。絶対にタオルの上を歩かせるのよ。泥だか汗だか埃だか、とにかくそういうおぞましいものを廊下に撒き散らしたら、ただじゃおかないって伝えて」
「了解しました」
 沙樹が敬礼のポーズをそのままに臨也ヘ向き直る。
「絶対にタオルの上だそうです」
「うん、聞いてたよ」
 げんなりした様子で、臨也が言う。
「俺、何か悪いことでもしたのかな。何でこんな辱めを受けてるのか、皆目、見当が付かないんだけど」
 渋々とベルトを外し、何が嬉しくて十代半ばの女の子を目の前に醜態を晒さねばならぬのかと、臨也は脱力気味に泥まみれペンキまみれのスラックスと、それからインナーのTシャツを脱いだ。
「意外。パンツは黒じゃないんですね」
「ドブネズミ色」
 沙樹は何故かぱっと顔を一段と明るくして胸の前で両手を合わせ、上司の醜態を笑いに舞い戻った正臣が何とも愉快な悪態を吐く。
「グレーと言ってほしい」
 勿論これには本人からすかさず訂正が入るが、当の二人はどこ吹く風である。
パンツ一枚でタオルの上を歩かされ、臨也はいよいよ死にたくなった。風呂場で待ち構えていた波江は重装備でエプロンをつけ、ゴム手袋まで嵌めている。
「ほら、入って」
「……出て行かないのかな、君たちは」
「いいから浴槽に入って」
 波江が言い聞かせるように再度、臨也の華奢な横っ腹をシャワーヘッドでつつく。
「空の浴槽に入ってどうしろって言うんだよ……」
「臨也さん、目を瞑った方がいいと思います」
 なおも渋る臨也へとかけられた沙樹の忠告に、彼が耳を傾ける間もなく。
「え?」
 冷水シャワーを浴びせられた臨也は直後、人間クリーナーと化した己の秘書に悲鳴を上げることとなった。





「それで俺、言ったんすよ。あんたの頭はあれだ、蛙のおつむとバナナの皮をミキサーでぐちゃぐちゃにシェイクしたのと大して変わんねえな、相棒?って」
「ちょっと、今からおやつだっていうのにそんな話、やめてちょうだい」
 波江が至極嫌そうな表情を隠さないまま、正臣を窘める。
「それに正臣ったら、その話もう四回目だよ?」
「じゃあ次は、路地裏でオッドアイの黒猫を拾ったところから始まるノンフィクション冒険活劇を」
「いやあ、実に面白そうな話だ。俺にも聞かせてくれないかな」
 わいわいとテーブルを取り囲む三人の後ろから、上っ面に明るい声がかけられる。実家から持ち込んだカキ氷機を力一杯回していた正臣が途端にわざとらしく咳払いをして、
「なあ沙樹、どんくらいいる?」
「うーん、山盛り!」
 それに気付かない沙樹が、すでにこんもりとグラスの器に乗せられたカキ氷を指さして答える。
 濡れた黒髪をバスタオルで大雑把に拭いながら、臨也がやれやれと波江の座るソファに腰を下ろし、
「あの露骨なの、どうにかならない?」
「自業自得でしょ」
 ぼそりと己の秘書に不満を漏らすが、波江は上司の言葉にも興味無さげで、四人分のグラスに麦茶を注いでいる。
「波江さんも山盛りにしておきました!もう食べ収めですから」
「ありがとう。シロップ、何にしようかしら」
 イチゴにブルーハワイにメロンにみぞれ!ミックスしても美味しいんですよ、と言って子供のように瞳を輝かせる沙樹に、波江が本当かしらとシロップの瓶を手に取る。
 臨也は、まだシロップのかかっていないカキ氷の器がずいと目の前に差し出されたのに気付き、さっと目を逸らす正臣を見止めた。沙樹のそれよりも遥かに多く、彼の手によって削られたカキ氷が、臨也の前でキラキラと白色灯の光を反射している。新宿に名高い情報屋がにやりと会心の笑みを浮かべたのは言うまでもない。
「俺のも山盛りだ。なーんだ、紀田くん。嬉しいことしてくれるじゃないか」
「何を勘違いしてるのか知らないっすけど、腹壊してトイレに籠ってしまえばいいと思って。一生」
「……あぁ。なるほどね」
 臨也と正臣の冷めた会話に沙樹がふふ、と口に手を当て、そんな沙樹の軽やかな笑い声を聞きながら、波江は臨也のために削られた山盛りの氷の上に、イチゴシロップの瓶を傾けた。


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