何かが足りない。ふとそう感じた時、すでに両親は死んでいた。九歳の私を引き取ったのは独り身で、同じ黒髪の、微塵も笑わない気難しい男だった。周りの大人たちは彼を遠い親戚だと言ったが、本当は血の繋がりなどないことは彼自身からそう聞いた。質素だが満たされた生活の中で、私は一人、夢を見ていた。

チャイルドルームに帰らない

 玄関には彼の革靴がきちんと揃えられている。台所の方から何か食べ物の良い匂いが香って、私は自分の靴を脱いで横に並べた。部屋に鞄を置き、ただいまを言いそびれてしまったと思いながら制服を着替える。
 小奇麗な3LDKの一室には何の可愛げも無いベッドと勉強机、それから小さなクローゼットが一つ。出窓に飾った幼馴染との写真はもう八年も前のものだ。どうしてかフレームの左端に寄るようにして、幼い私たちがあどけない笑顔を浮かべている。私のたった一人の幼馴染は賢く聡明で、精悍さの増してきた顔立ちと相まって最近ますます黄色い声がやまない。物好きな友人たちは何かと私と幼馴染との噂に興じ、そんな浅はかな関係ではないと私が言い返して学校中に波紋を呼んだことは記憶に新しい。大丈夫、ミカサのことなら自分のこと以上にわかってるからさ、と私を慰めた幼馴染の発言が一部の女の子たちにさらに引火したことは言うまでも無い。彼は来年の春、大学進学のためにこの町を出ていくという。
 中学生の頃の体操ジャージは半袖半ズボンで、何の色気もないが部屋着にはちょうどよかった。私はのそのそと制服をハンガーに吊るし、台所へ向かう。
 額にじんわりと汗を浮かべながら、彼が人参の皮を剥いている。彼は暑がりだ。時期早く足元に置かれた扇風機が二人分の膝小僧を撫でて、私は黙ったまま隣に立ち、その人参を今度は乱切りにしていく。
「学校はどうだった」
 鍋の中を見ると、まだ火の通っていない鶏肉やアスパラガスがごろごろ入っていた。クリームシチューは私の好物だ。
「学校、は楽しい」
「少しくらい楽しそうな顔して言いやがれ」
 呆れ顔で彼が言う。私は今日のことを少し考えて続けた。
「進路指導があった」
「そうか。せいぜい悩め。今しかできんことをやれ」
 眩しいように目を細めて、彼は手にしたピーラーを置き、額の汗を拭う。手際良くレトルトのルーを割り、それから鍋に水を張って火を点ける。この家の流し台は少しばかり低い。屈んだままの姿勢で腰が痛くなるから洗い物をしたくないと言い、彼に肘鉄をお見舞いされた数年前のことをぼんやりと思い出す。
「わたし、大学には行かない」
 扇風機の風の音が妙に煩かった。あまりにも唐突な私の言葉に彼はようやく此方を見、
「…何考えてやがる」
 感情に乏しい声を一層低くして答える。いつの間にか彼が取り寄せていたらしい大学のパンフレットを受け取ったのがつい昨晩のことだ。私だってそれから部屋に戻って、ベッドに寝そべりながらずっとそれを眺めていた。この町で一番の大学。幼馴染が目指す都会の大学には到底及ばないけれど、ここならば奨学金が貰えるし、何より家から通えると、私だってそう思っていた。昨晩までは。
「まだ、会えていない人がいるから」
「そうか」
 彼は俯き、長い長い息を吐いた。諦めたような、だけど確かにあたたかい目をしていた。この時初めて、私は彼が全てを解っているのだと知った。そうして気付けば、今までの無口な二人の会話を取り戻すように、後から後から覚束無い言葉が口をつき、溢れた。
「その人を、探しに、行く」
「…どこへだ」
「その人がいる場所。わからない、全然わからない、けれど。私が行って、見つけなければ、ならない。その人だけがいない。あなたがいて、アルミン、ジャン、アニ、サシャ、コニー、マルコ。クリスタ、ユミルもいる。ライナーと、ベルトルトもいる。なのに、その人だけが、いなかった。いない。どこにも、見つからない…」
 喉の奥から込み上げるものを堪え切れず、言いながらフローリングにぼたぼたと涙が零れた。泣き顔なんか見せたくなかった。私はばかだ。何にも思い出さないまま生きて、彼の作った料理においしいの一言も言わなかった。母親に作ってもらったことなどない、見たこともないくせに、木を削った深皿にじゃがいもと根菜だけの素朴なそれをずっと食べたいと願っていた。
「リヴァイ、さん」
「何だ、ガキ」
 彼と二人、そうやって暮らして。
「あなたに会えてよかった。…と、今は、そう思います」
 このまま続くと思っていた。しかしそれを突き崩そうとしている。自分自身の、漠然とした根拠の無い確信だけに縋って。彼のもとを離れようと。私は。
「ミカサ」
「…はい」
「おまえは此処にこうして生きていて、俺はおまえの保護者だ。大学に行って、働いて、いいヤツを見つけて結婚して、そういう人生を送ってほしいと願ってた。いや、今でもそう願ってる」
 誰よりも近くにいた筈なのに、私たちはそれぞれの願いに蓋をして、素知らぬ顔で相手に触れさえしなかった。シチューのルーが溶けて、ふつふつと優しい音がする。
「…おまえの心臓は、おまえのために捧げろ。おまえがそれを、あいつを望むのなら、迷わず行って探し出せ。首根っこつかまえて、今度こそ離すな」
 彼が鍋をかき混ぜて、小皿に少しだけ掬った。初夏に汗をかきながらシチューを食べるなんて、まだ見ぬその人が知ったら笑うかもしれない。
「ほら、味見」
「…おいしいです」
「泣くな。当たり前だ」
 それは今まで食べたどんなシチューよりおいしかった。彼と私の、しあわせの味だと思った。



―――――



 リヴァイさんは、とても優しい人だった。九歳の私に麦わら帽を被らせて、ここが山だのこれが川だの仏頂面でそう言っては、無器用にむすんだおにぎりを食べさせてくれるような、そういう人だった。
「だけど、海だけは連れて行ってくれなかった…な」
 砂浜に溶けた言葉は誰の耳に届くこともなく、私はふたたび歩き出す。ここを辿ればその人に会える、そんな予感だけを胸に抱いて。



―――――



「リヴァイー。あの子、ミカサ、どうしたの」
「さあな。海でも見に行ったんじゃねえか」
「えー。海水浴にはまだちょっと寒くない?」
「あぁ」

「寒いな」

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