「う、わ」

事務所のドアを開けた静雄は、その光景を見て仰け反った。狭い玄関口で急に立ち止まった為に、後ろをくっついていたヴァローナがその背中に額をぶつけ、非難の声をあげる。買い出しとして購入した大量の事務用品を両手にぶら下げたまま、静雄はそれでも動こうとしない。我慢ならなくなったヴァローナが同じく抱え込んだ荷物を軽々と持ち直し、静雄の後ろからひょっこりと顔を出す。そして目を見張り、少しの沈黙のあとで、静かに口を開いた。

「…眼前に未知の乳児を発見」

Oh My Baby!!

「どうしたんすかトムさん…その子、その、赤ちゃん」

静雄は出来る限り冷静を取り繕い、ソファに腰掛けた。普段からはきはきと物を言うタイプではない上に、予想外の状況を受けて語尾の切れが悪い。低いテーブルを挟んで”彼ら”を遠巻きに眺めるあたり、その手の子どもには慣れていない。対してヴァローナはけろっとしたもので、最初こそその光景に驚きはしたが、買い出しの戦利品をほったらかしに赤ん坊と同じ目線になるよう膝を折っては、瞳を輝かせて赤ん坊の指や頬なんかを触ったりしている。

「あぁ、社長がな――」
「トム先輩、発言にあたり声量を下げる配慮を求めます」
「お、おう、悪ィ」

ヴァローナの真っ当な指摘に、トムはいつもの癖で頬を掻こうとしかけ、だが塞がった両腕の中ですやすやと寝息を立てるその赤ん坊に思い止まると、事の経緯を話し始めた。 トムの話によれば、なんでもこの子どもは社長の姪にあたるらしく、静雄とヴァローナが不在の間に社長が自ら会社に連れて来たという。子どもの母親、つまり社長の妹が旧友に急用ができたとかなんとかで、今夜一晩預かってくれと。その時点で既に時刻は午後五時。帰り支度を始めていた女性社員たちが、社長の説明も待たずそそくさと事務所を後にしたのは言うまでも無い。得体の知れない雇用主の姪の世話など、少なくとも花金のアフターファイブには御免被る事案である。そこで静雄とヴァローナの帰りを待っていたトム(この後ラーメンでも食べに行くつもりだったのだ。)に白羽の矢が立ち、あれよあれよという間にまだ首がすわったばかりの赤ん坊を抱かされ、人の良い彼はひたすら後輩二人の帰りを待ちわびていたというわけである。

「てっきり俺、トムさんの子供かと思ったっすよ、はぁ、何か変な汗かいた」
「同意します。が、トム先輩の子供と推測するには、直毛かつ色白な点が気になりました」
「いやだから俺の子供じゃねえし、だいたい俺だって生まれたときからこんな色黒ドレッドじゃねえし」
「はあ」
「…信用してねえな」

適当極まりない返事もそこそこに、ヴァローナはトムの腕に抱かれる赤ん坊に釘付けだ。静雄が居心地悪そうに熱くもない緑茶をずず、と啜る。社長が置いて行った紙袋の中にはミルクなどのそれらしきものが詰め込まれていて、静雄とヴァローナが買ってきた大量の戦利品計四袋分に、やたら存在感のある大の男が二人と外国人女性が一人、それにまったく溶け込まない赤ん坊の姿を合わせて、来賓室は文字通りごった返している。

「それにしてもよく眠ってますね」
「代わるか?」
「…いや、遠慮しとくっす。泣かれる気しかしねえもんで」
「静雄先輩の予想に疑問を呈します。以前誰よりも子猫になつかれていたと記憶していますが」
「そんなんお前、猫の子供と人間の子供じゃ、あれが全然違うだろーがよ」
「似たようなものです。加えて先輩、あれ、とは何でしょう」
「あれってそりゃあ、あれはあれだ、ほら…」

噛み合っているのかいないのか、いつも通り始まった二人の会話に、トムはちらと赤ん坊を見遣った。本人は世界の真理を説いている気でいるが些か見当違いなヴァローナに、言いたいことはわかるのだが言葉が追いつかずそれでも律儀に答える静雄。先程トムに声のボリュームを落とせと言ったヴァローナが、会話のうちに普段と変わりないトーンを取り戻しつつある。静雄の低音も響く。あーあ起きちまうだろ、トムがそう言おうと口を開いた矢先、腕の中の赤ん坊が目を瞑ったまま、大人顔負けに不機嫌そうな表情を浮かべた。

「あ、」

トムの口から漏れた音素たった一つに、静雄とヴァローナが同時に赤ん坊を見つめ、息をのむ。次いで、何とも形容し難い、うみゃんともうみょんとも取れる小動物の鳴き声にも似たぐずり声が三人の耳に飛び込んでくる。揃って呼吸を止めた三人をよそに、しかし赤ん坊はトムに抱かれて少し身じろぎしたきり、再び安らかな寝息を立て始めた。

「…猫だ」

ひっそりと静雄が呟く。

「ご理解恐縮です」
「猫じゃねえよ」

真顔でそう言い切るヴァローナに、トムが訂正を入れる。

「やべえな、腕痺れてきた」
「トム先輩、私に交代を提案します」

つい今しがた赤ん坊と子猫を同列に扱ったヴァローナが、嬉々として両腕を差し出すのを、トムは胡散臭そうに見つめた。大丈夫か、とトムは独り言のようにこぼす。

「じゃあ頼んだぞ、ヴァローナ」
「了解です」

だがトムのそんな心配も露知らず、おそらく腕の痺れなど味わったことの無い静雄は自分に話が振られないようヴァローナを推す。無責任な奴らである。ヴァローナもヴァローナで先輩に任務を託されすっかり使命に燃えている。しかし慣れない緊張感と凝り固まった筋肉の疲弊は否めない。後輩二人が事務所に戻るまでの時間も含め、ゆうに二時間は抱きかかえた状態が続いている。トムは慎重に腕を動かして、ヴァローナへとそのあたたかな子どもを手放す。まだじんわりと体温が残っていた。ヴァローナは眠ったままの子どもをあやすように上体を小さく揺らして、その寝顔を見つめている。何となくではあるが、トムは自分が抱いていた時よりも、ヴァローナの腕の中にいる赤ん坊の表情が和らいでいるような気がした。子猫と人間の子どもを一緒くたにしてしまう彼女ではあるが、やはりこういうことは女には敵わないと思う。いつか彼女も、自分の子どもにこんな表情をするのだろうか。その時、傍に自分や静雄はいるのだろうか。トムは珍しくそんな感傷的なことを考えていた。静雄の方を見ると、テーブルに片手で頬杖をつき、いつにない真剣な眼差しで後輩と赤ん坊を見つめている。男二人、きっと考えていることは同じだ。ヴァローナが何か口ずさんでいる。なんてあたたかい異国の言葉だろう、トムはそう思った。


♂♀

赤ん坊のつんざくような泣き声に、静雄は上体を起こして飛び起きた。いつの間にか眠っていたらしい。腕組みをしてソファに凭れかかっているトムの寝起きは悪く、何やら呻りながら眉間に皺を寄せている。飽きもせずずっと寝顔を見つめていたとみえるヴァローナが、腕の中で大声をあげる赤ん坊にはっと静雄を見上げた。次いで隣で寝惚けているトムに呼びかける。子どもはその小さな体のどこからそんな力が湧き出ているのか、ぎゃあぎゃあと絶えず泣き叫んでいる。

「な、何故突然涕泣するのか理由の提示を求めます…!」
「うわ、なんだ、急にどうしちまったんだよ?!」
「腹減ったんじゃないっすか、今思い出したんすけど、そういや幽もガキん頃ーー」

ヴァローナはまだ言葉などわかったものではない子どもに焦って話しかけ、寝起きのトムはおろおろと歩き回り、静雄は早口で何か言いつつも、社長から預かった荷物を開けようと一番まともな考えを思い立ち、誤って豪快に事務用品のビニール袋を開けたために数十本のボールペンが床に散らばることとなった。

「…せ、先輩」
「「どうした?!」」

ヴァローナの震えたような呼びかけにトムと静雄が顔面蒼白で声をあげる。

「左腕に…並々ならぬ水気を感じます」

そこから静雄が目当ての鞄を開けてオムツを見つけ、トムが事務所の引き出しを引っくり返してウェットティッシュを探し出すのに数分も要しなかったことが、男二人の今日一番の成果と言っても過言ではない。さらに言えば、トムに至っては自分にも数年前までオムツを履いていた甥がいたことを思い出して、静雄とヴァローナの協力のもと、見よう見真似で何とかオムツを履き替えさせることができた。その時はじめて二人はトムに姉がいることを知った。だからどうという話ではないのだが、トムが姉や甥の話をするのを、二人は黙って聞いていた。ふしぎな気分だった。そうして無事子どもは泣きやみ、ヴァローナの腕の中で静かにしているのを、三人は暫く眺めていた。声をあげるでもない、手足をばたばたと動かすでもない、トムはこんな子ども初めて見たといい、静雄は先程よりも少し距離を詰めて、自分の人差し指が子どもの掌に掴まれているのを、されるがままにしていた。さすがに疲れたらしい、子どもの体温のあたたかさに、ヴァローナがこっくりこっくりとまどろんでいる。それをわかってか、赤ん坊が彼女を起こさない程度の小さな声をあげて、静雄に向かってぱっと両手を伸ばした。一人前に甘えたそぶりにすら見受けられる。

「いや、わりィが俺は無理だ」
「大丈夫だって、ほら、高い高ーいっつってよ」

途端、軽く強張る静雄の表情にトムは笑った。そんなトムに静雄は頬を掻き、(トムの癖がうつったのだ。)小さく船を漕ぐヴァローナを起こさないようそろりと子どもの脇の下に両手を差し込み、抱きかかえた。立ちあがったまま、彼女に倣って揺り籠のように体を揺らす。高い視界にきゃっきゃと子どもが声をあげた。

「あ、笑ってるっす」
「…お前、ほんとモテるよな」
「へ?モテないっすよ、俺彼女いたこととかねえっすもん」
「多分…っつーか絶対、そういうとこがモテんだよ」

時計の短針は十を差していた。明日も早い上に、社長がいつ顔を出すかもわからない。とりあえず静雄だけでも帰すかとトムが思案顔でジャケットを脱ぎ、ヴァローナにかけてやっていると、慌ただしく事務所のドアが開く音が聞こえて、トムと静雄ははてと顔を見合わせた。

♂♀

「あー、俺らはまあ、暫くしたら帰りますわ、うちの最年少がおねむなもんで」

社長とその妹、それから上機嫌な赤ん坊をビルの階段まで見送ったところで、トムは肩を回して溜め息をつく。社長の妹の用事が思ったよりも早く片付いたらしい、社長と二人愛しい子どものもとへすっ飛んで来たのだ。これで夜が更ける前に帰れる、赤ん坊は何事もなく無事親のもとへ返すことができた、まったく一安心である。欠伸を噛み殺しながらトムが事務所に戻ると、静雄がしゃがみ込んでボールペンの回収にあたっていた。ベストを脱いでさぞ気合いの入ったことだと思ってみれば、ヴァローナにかけたトムのジャケットの上に、申し訳程度にベストが乗っかっている。

「ん、んにぁ…」

狭い一人掛けソファの中で、ヴァローナが寝返りを打つ。

「お、起きたか?」
「…こっちのが猫っすね」
「そうだな」

トムのジャケットと静雄のベストを握り締めて、最年少の彼女はゆっくりと目を覚ました。
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