青い魚の四つの目玉
「夜になっても戻らなかったら警察を呼ぶのよ」

ビアンキさんは確かにそう言った。今になって思えばあの時彼女は楽しそうに笑っていて、私はそれが、彼女が上機嫌の時にたまにやる冗談の一つだと思いも付かなかったのだ。ビアンキさんはそうしてワンルームのアパートを出て行った。冷蔵庫には青魚が二匹、転がっているだけだった。冷蔵庫のドアを閉める。開ける。青魚が二匹、それきり。私はただ窓の外を見つめ、日が暮れる前の西日に目を細め、カーテンを閉めた。お腹が減って仕方なかった。フローリングの上に死ぬ前の猫みたいに転がって、青魚の四つの眼が白く濁っていたことを、ひたすら考えていた。

「…だってビアンキさん、夜になったのに帰って来なかったから」
「ごめんなさい。でもねハル、午後七時のことを、誰も夜だなんて言わないわ」

暗くなったから110番した。警察の人が二人やって来て、ビアンキさんが帰って来ないんですと言うと、何故だか背中あたりに毛布をかけられて、寒かったねえとか何とか言われた。別に寒くなんかないのに、お腹が減って、ビアンキさんが帰って来ないだけなのに。暫く色々聞かれていたけれど、警察の人が訝しげに顔を見合わせた頃、ヒールをカツカツいわせてビアンキさんが帰って来た。ビアンキさんは警察の人に謝って、その後どうして110番なんかしたのと私に言ったのだった。

「それよりも、ハル、今日は何でも好きな物を食べに行きましょう」
「魚が食べたいです」
「魚?じゃあフレンチがいいわ」
「そうじゃなくて、あのお魚さんを」
「ねえ、ハル」

警察の人が玄関のドアを閉めた瞬間、ビアンキさんはたった今までのことをすっかり忘れてしまったように私の手を掴んで振り回した。本当は何かとてもいいことがあったのを、警察の人が帰るまでずっと我慢していたらしい。

「あんなしみったれたのじゃだめなの。それに私、生の魚なんか切れない」
「ハルも切れません」
「ね、それじゃあ仕方ないでしょ」
「ビアンキさん、どこに行っていたんですか?」
「どこ?さあ、どこに行こうかしら!」

ビアンキさんは私の手を取ったまま、冷蔵庫のあるキッチンをさっさと通り過ぎて、またヒールを履こうとして、黒と白のストライプ柄が可愛いぺたんこ靴に足を滑り込ませた。

「ハル、その靴すごく好きです」
「私も大好きよ」

その日食べた前菜の真鯛のカルパッチョには、ぶつ切りになった頭がちょこんと皿を飾っていた。ビアンキさんはしかめっ面だったけれど、真鯛の眼はきらきらと透き通っていて、その夜、私は夢を見た。
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