「銀ちゃん」
そう言って神楽ちゃんがむくりと起き上がったのは、玄関の引き戸が開く音よりも吹きすさぶ風の音が直に感じられたからだろう。少女特有の高くあどけない声は、湿りきった部屋に違和感を残して消える。その真っ青な瞳が玄関先を凝視し、のらりくらりと此方に向かう家主の姿を捉えた。
「…あ、おかえりなさい銀さん」
「お前」
しかし彼は少女をろくに見ないまま、迷いなく私の方へと足を進め、
「ちょうどいいところにいた」
呟くみたいに言って、ぶるりと犬さながらに身を震わせる。着流しからは雨水が垂れ、足元には撥ねた泥をくっつけている。彼は癖の強いびしょ濡れの髪を、手にした女物の薄いハンカチで乱暴に拭った。刺繍の綺麗な桃色のハンカチだ。
「あぁ神楽は…ババアんとこ行って飯食ってこいや。今日うち何もねーから」
「…わかったアル」
私が何か言う前に彼は少女を追い出してしまって、少女もまた彼に従った。恨めしげな視線だけは一人前だ。私も彼も知っているはずだ、新八くんが魚の干物をちゃんと冷蔵庫に入れてくれていることを。そしてまた少女だって、今日一日で何度も冷蔵庫を開け閉めしていたはずだった。定春くんを連れて神楽ちゃんが玄関の引き戸を閉めた頃、ようやく私は口を開く。
「え…どうしたの」
「どうもしねえよ、ただかわいいなって」
言いながら彼は恐ろしいほどに無表情のまま私に近付き、物を扱うみたいに手首を掴むとそのまま唇を合わせた。何の感慨もなかったけれど息が苦しくて少し情けなくて、自分を憐れに思った。ソファの上でずるずると体勢が崩れて、唇を離したときには彼の死んだような顔が真上に見てとれた。ぐしゃぐしゃに丸まった桃色のハンカチは、いつの間にごみ箱に投げ捨てられている。
「お妙さんと何かあったのね」
「何でそこであいつが出てくんだよ…」
彼は私の服の裾を器用に捲り上げながらまたキスをして、それから太ももに手をかけた。何も考えずに自分から足を広げると、彼の動きが止まった。
「お前ほんと俺のこと好きな」
「うん、好き」
何だか子供っぽくなった私の答えに、彼が顔を歪めて笑う。