微熱の精度
それを見つけたのが私で良かったと、今になって心底そう思う。
屋根裏で埃を被っていたそれは金箔の装飾こそ剥がれ落ちているものの、磨けば本来の艶目を取り戻す美しいチェスピースであった。オーク材に市松模様の描かれた珍しいチェス盤は腐食が進んでおり、それでもかつてこの城に住んだ遠い貴族の逸品に私は思わず感嘆の声を上げたのだが。
エルドを筆頭とした男性陣の不評を受け、これらはひっそりと私の部屋に匿われることとなる。何しろ一兵士の娯楽と言えばトランプカードが関の山で、チェスなどはもっぱら上流階級のお遊びであった。オルオに至ってはチェスピースを出来の悪いワインキャップと言い張る始末で、薄汚れてしまったガラクタが兵長の目に止まる前にと年長の男二人から処分をせっつかれ、城の裏手に捨てるふりだけはしておいたのだ。
無論、彼がこの宝物を見つけるまでそう時間は要さなかったのは、朝に弱い私がいつも部屋のドアを閉める間もなく共同スペースに駆け込むからというわけで。

「腕を上げたな、ペトラ」
「…私の駒を取りながら言われても説得力に欠けます」

彼は頬を膨らませる私をちらと見遣り、慣れた手つきでビショップを動かした。
非番が重なる度、彼が報告書を片手に私の部屋を訪れるようになって数週間が経っている。字が苦手だという彼の頼みで書類の誤字や脱字を整え、それから夕食の時間になるまでの間ずっと、私たちはこうしてチェス盤の前に向き合うのだ。初戦が見るも無惨な大敗であったことは二の次として、私にチェスを一から教えた物好きな父には感謝しなくてはならない。

「新兵の頃は見た目にそぐわず威勢のいいガキだとばかり思っていたが」

チェスクロックの代わりには、彼の懐中時計と私の腕時計を窓枠に並べて。

「頭は切れる、気は回る、学もある…それに、お前は綺麗な文字を書くな、ペトラよ。その上器量良しとくれば」

表情を微塵も変えないままこんなことを言ってのけるのは、私しか知りえない彼の悪い癖だと信じたい。肩肘を張らず、上等なリネンシャツの第一ボタンを開けた彼はどこか故意に付け入る隙を与えているようにも思える。

「…兵長、口説いているおつもりではないのなら「口説きたくもなる。お前が俺の部下じゃなけりゃな」

努めて冷静を装おった私の言葉に、彼は被せてそう言った。あまり目が合うことはなく、しかしとても穏やかな空間だった。そこにいるのは地下街のゴロツキでもなければ、人類最強の兵士でもなかった。神経質であるが敏く、無口で機微に通じ、私より幾つか年上の、たったそれだけの男だった。

「それは…残念です」

私は駒を進め、彼の駒を取って掌の中でそっと撫でた。いつまでも触れ続ければ、ひんやりと冷たい大理石のチェスピースはやがて子供のように高い私の熱でその温度を失うだろう。それがひどく怖かった。

「私、あなたの下を離れる気なんて更々ありません」
「ほう…?」

キングまで、チェックメイトまではあと一手だった。窓ガラス越しには低くなだらかな山々に沈む夕陽が射し込み、懐中時計に反射する。私は思わず目を細める。その油断を、彼が見逃すはずもなかった。

「チェックメイトだ」
「あっ…」

ゲームはまたしても、彼の勝ちに終わった。いつの間に私のキングを掠め取った彼は、しかし呆れたように溜め息を吐いてみせ、乱暴に前髪を掻き分けてソファから立ち上がる。

「ペトラ。俺の部下でいたいなら、まず上司を立てることを覚えろ。これまで取られちゃ格好が付かねえからな」
「…おーぼーです」
「上司はいつの時代も横暴なもんだ」

そうしてチェス盤の片隅に取り残された一つのポーンを、彼の人差し指がこつんと触れる。耳に髪をかけるそぶりで頬の赤さを隠す私は、やっぱり彼に勝てそうにもない。
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