口内射撃と十字架
彼が好んで食べた生ハムだけのパニーノは、それはそれは口の中がもさついてやりきれなかった。ダンディなバリスタに生ハムだけにしてね、と注文をつけるのにどれだけ恥ずかしい思いをしたことか。そそくさと店を出ようとすると、たむろしていた年下とおぼしき男たちがこちらに手を振って笑う。

「お姉さん、きれいな唇してるね」
「ラードでべたべたなのに、それって皮肉かしら」

ローマにはもう長く戻らないつもりだ。これでお終いなのだと言い聞かせて、私はこんなにも美しい街を一人で歩いている。甘すぎるカプチーノに舌打ちをしてさっさと車に戻ろうとする、そんな無愛想な彼をふと見かけた気がして、私はコートの襟に顔を埋めた。ばかばかしい。きっと今頃泡でも吹いて死んでいるにちがいない。それは毒薬を仕込んだ昼食のせいかもしれないし、もしかしてあの家に仕掛けた爆発装置に手を触れたのかもしれない。どちらにしろ彼は黒だった。我らがボスの願望にも似た予想は虚しくも外れることとなるのだが、そんなこと彼の家に転がり込んだそばからわかっていた。執拗に靴の裏を磨く癖、届けられる郵便物は宛名が同じだったことなど一度もなく、財布の中に折り畳まれた外国貨幣の偽札は申し分ない決定打。しかしそれをすぐ上に伝えなかったのは、名目上彼を泳がせる為であり、事実単なる私の好奇心に他ならない。そして一年と少しの時間を、私は踏ん切りを付けられぬままにあてもなく過ごしてきた。休日にはサッカーやオペラを観に行ったりもした。私のお気に入りの店にわざわざランチを食べに来る彼をかわいいと思ったこともあった。そのくせ手すら握らない、同じベッドで眠ろうともしないことに違和感を感じた時、私はとうとう自らの引き際を悟ったのだ。感づかれている、と。自分勝手にやるだけやってしくじった私に、しかしボスは眉を下げて笑う。巻き添えをくいたくなきゃ一刻も早くローマを離れること、いいね?ボスはまるで子供に言い聞かせるみたいに私の頭を撫でて言った。

「それとも、自分で殺る?」

まざまざと思い出されるその言葉に、私ははっとして後ろを振り返る。どこまでも続く石畳を夕陽が照らし、老舗のトラットリアが仕込みを始めた頃だ。都心にあるはずがこうも静かな夕暮れ。いつの間にか足は帰り慣れたアパートへと向かっていて、私は立ち止まっては行き場を無くす。終わらせたのは誰だっただろう。下を向けばしゃがみ込んでしまいそうな、この喪失感を認めてしまった方がいっそ楽になれる気がして―――。つい三日前、私宛てに届いた差出人不明の封筒のことを、彼は知らない。ローマ・フィウミチーノ空港発の航空券、出発時刻は今日の夜八時。私は踵を返してバッグを抱え直す。そして一歩踏み出そうとしたその時だった。斜め後ろの方からぐっと手首を引かれて、強引にもどこか縋るような、触れたこともないのに懐かしい感覚が一気に体中を駆け巡り、私は思わず唾を飲む。ほんの少し首を傾けるだけで“彼”を視界に入れることができるはずなのに、今はそれができない。

「俺が本当にあんなもんで死ぬと思ったか、カスが」
「………ザンザス、」

走ったのだろう荒い息遣いがすぐ後ろに聞こえる。殺されるかもしれない、私は脈拍の高い心臓を落ち着かせようと冷静にそんなことを考える。航空券の入ったバッグが重く食い込むような錯覚に捕われる。結局私は彼を殺すことなどできなかった。このまま私はローマを離れて、のうのうと暮らすつもりだったのに。死にぞこないの馬鹿でつまらない男もいたわねって、他の男に抱かれながら煙草をくわえるのだ。

「来い」

だから泣き顔を晒しでもしたら、全部台なしになってしまうでしょう。

「引きずってでも連れ出してやる」




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