「ゆっくりしてってね」
呼び鈴を鳴らすと、エプロンをつけた沖田のお姉さんが出た。山崎くんこんにちは、久しぶりねあやめちゃん。俺はこんにちはと返し、猿飛さんは黙って会釈した。盆に葡萄ジュースを持ったお姉さんに、二階の沖田の部屋に通される。ウェルチだ。猿飛さんががさごそと、ダイエットコーラの入ったコンビニの袋を鞄に突っ込んだ。
「はは、猿飛さん、顔引き攣ってる」
「うるさいわね」
「苦手オーラ出しまくりじゃん」
部屋のドアが閉まるなり、俺が耐え切れずに笑うと、猿飛さんは気まずそうに視線を逸らし、ベッドに腰掛けてポータブルゲームに興じていた沖田が口を尖らせる。
「何でィ、お前、昔は俺の真似してお姉ちゃんお姉ちゃんって懐いてただろ」
「でも前とはもう違うじゃない。大学生だし、敬語だし。大人の女の人って感じがして、別にミツバさんに限らず、…年上の女の人って苦手なの」
沖田がグラスを手に取って、ちびちびとウェルチを飲みながら猿飛さんを見ている。言い終わって、ちょっとした沈黙にさえ耐えきれず、猿飛さんがノンフライのスナック菓子だけを鞄から取り出した。沖田は何も言わない。
「俺はむしろ好きだけどな、大人の女の人」
「ザキやめろ、きめえよ」
「冗談だよ、何むきになってんだか」
口を開くと、すかさず沖田から非難の目が向けられて、笑う。
「お前さあ、ほんと、なんつーんだろ、狭いよな」
「あんたにだけは言われたくない」
沖田の無神経な言葉に、猿飛さんがきっと沖田を睨みつけた。俺から言わせればどっちもどっちだ。俺も含めて。
「だってお前から話しかけるのって俺らだろ、銀八の野郎だろ、ええ、あとは」
「最近さ、服部先生とお熱なのは?」
俺が茶化せば、沖田が眉を下げてしかめっ面を向ける。指折り数えて、それが中指で止まっている。思案顔。
「どいつだっけ」
「日本史の」
俺が言うと沖田がああ、確かに、と言って頷き、
猿飛さんが慌てたように首を振った。左手で何か振り払うような素振り。
「補習補習ってしつこいんだから、最悪よ」
そんな猿飛さんの様子に、沖田がわざとらしくこほんと咳払いする。甚だ嫌味な奴である。
「何にやにやしてるの」
「あいつだったよな、確かブス専」
途端に、目の前のクッションが沖田の顔面に叩きつけられる。クッションとはいえあれは痛そうだ。
「いって!」
お姉さんと同じ薄茶色の前髪が変に乱れて、沖田が声を上げた。頬を押さえるのは些か大袈裟だ。猿飛さんは俺になんか目もくれないままでいる。猫みたいな、小学生みたいな喧嘩だ。そりゃあ狭くもなる。
「あのさあ、今更だけど、今日、二人ともご機嫌斜め?」
また俺が笑う。へらへら。それしかやり方を知らない。めんどくさい。
「まあどっちでもいいけど」
「帰る」
俺がぼそりと本音を漏らすのと、猿飛さんが立ち上がったのはほぼ同時だった。ショップ袋を引っ掴む。中でダイエットコーラがちゃぷんと揺れる音がする。2リットルのペットボトルが入っているとは思えない、猿飛さんの右腕が軽々とそれを持ち直す。
「え、猿飛さん、宿題は」
「一人でする」
「できないから集まったんじゃないの。それに俺の数学」
「隣の馬鹿に手伝ってもらえば?」
「算数止まりだっつてんだろバカヤロー」
隣の馬鹿に目を遣ると、馬鹿はしれっとウェルチに手を伸ばしていた。数学などこいつには縁遠い話である。呆れた眼差しを向けていると、ふいに沖田が猿飛さんに声をかける。
「さっちゃん」
「…何」
猿飛さんはもう部屋のドアを開けようとしている。振り向きはしない。チェック柄のシュシュを此方に向けて、そのままだ。
「何よ」
「…あれでィ、姉上にちゃんと挨拶してけよ」
「また明日」
「おう」
ドアが閉まって、思わず沖田をまじまじと見つめる。今のあれは何だ。猫でも喧嘩は次の日に持ち越すんじゃないのか。やっぱり沖田は涼しい顔をしている。乱れていたはずの前髪もいつの間にか直っていた。猿飛さんが買って来たスナック菓子なんかに手を付けて、そのままの手でポータブルゲームを弄る。
「俺にはわからんよ」
「何が」
「数学が!」