ですからいったでしょう、あなた
「ですからいったでしょう、あなた」
そう言われてしまうと、俺はもうぐうの音も出せずに黙り込むより他なかった。彼女はかれこれ随分長い時間をかけて丁寧に爪を研いでいる。カルシウムの削られる音が俺をどん詰まりの気分にさせる。
「はあ」
「もとより敵うお相手ではなかったのです。あなたたちって性格はともあれ、本当にステレオタイプなんですもの。美しい初恋のお嬢様、華族の位をお持ちの殿方、それから何をとっても平均的なしがない男子学生の三角関係なんぞ、初めっからちゃんちゃら可笑しいお話です」
「映子(えいこ)ちゃんは俺を好きだと」
「人妻ですよ。映子ちゃんなんて、はしたない」
「映子さんは俺を好きだと言った。柳(やなぎ)だって聞いただろう」
柳は眉間の皺を隠すことなく横槍を入れ、そっぽを向いて俺の情けない言い草を右から左に流している。今、柳の頭を支配しているのは自分の爪先のつや、形、色味、男からすれば微塵も目に留めない身体の末端、それからおそらく多少なりとも、薄暗い土間の水桶に投げ入れたまま洗い終えていない二組のティーカップ。柳は水仕事がきらいだと言う。チョークを持つ手はきれいでなくてはならない、と持論を唱えるのは構わないが、何も俺に言うことではない。
「煮え切らないお方ですこと。昔からそうです。あなた、映子お嬢様のことがお好きだと言っておきながら、この柳めに勇気を振り絞って告白した年下の男子学生をひどい物言いで追い返したこと、柳はきっと忘れません」
「俺はもう忘れた」
ますます頬を膨らませる柳は、こんなに暑い日にも律儀に支給された西洋風の安っぽくちっとも魅力を感じない女中姿でいる。見ている此方が汗ばみそうだと、俺はやぶれ散った薄い初恋にまざまざと思いを寄せ、人っ子一人ない屋敷の真ん中でうつ伏せる。ちら、と柳が俺を見たが、俺は素知らぬふりで目を閉じた。
「あなたはいつもそうです。でも柳がそれを知っているから別にいいのです」
柳は何を伝えたいのかわからないようなことを言って、やすりを塵箱に入れた。薄目を開けて観察していると、彼女の青白いふくらはぎがとんとんと軽快なリズムで彼女を遠くへ運んでゆく。
「柳、どこか出かけでもするのかい」
言ってすぐにしまったと思った、まるで母親に突き放された世間知らずの子どものような。それでも柳は大層嬉しそうにくるりと此方へやって来てしゃがみ込み、きっと阿呆のようにだらしない俺の顔を上から眺めて笑っている。片頬にできたえくぼをぐいと押してやりたいが、そんなことをしては柳が困る。
「旦那様、旦那様はデパァトに出かけなくてはなりません。映子お嬢様の結婚式に、よもやそんな薄汚い格好でお顔を見せるわけにはいきませんでしょう」
デパァトか。
「柳が見繕って差し上げます」
「楽しそうだな」
両手の爪は桜貝。柳が俺を小馬鹿にしたような顔で面白がっている。
「旦那様。恋って大変でしたでしょう」
「わかってくれるか」
「それはもう、痛いほどに」
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -