息をはいて
その日は父さんも母さんも揃って家を空けていた。一週間前から取り掛かっている仕事はまだ終わる様子もなく、俺は人の少なくなったアジトを出て、左手で車のキーを弄びながら、獄寺くんに声をかけた。ついでに何か買って来るものはないかと聞くと、獄寺くんは首を振って、お気をつけて、と言った。やっぱり歩いて行くことにしよう。少し寒いが、別段震えるほどのことでもない。チビたちの様子を見に行くのだ。何日か前に、ビアンキがソロモン諸島から帰って来て、それきり家には顔を出していない。明日の飛行機でフゥ太も戻る。またにぎやかになる。

「ビアンキ」

住宅街の中にあるその家はとても静かで、明かり一つ付いていない。子供部屋でチビたちがテレビゲームにでも興じているだろうと思ったが、その様子もなさそうだ。右手を捻って腕時計に目を凝らす。さすがに眠っているか。玄関を入って、キッチンの照明を付ける。冷蔵庫にはフゥ太がチビたちへのお土産に持ち帰る、色んな国のマグネットが無造作に並んでいる。中には烏龍茶のペットボトルが二つ、どちらも飲みかけだ。それに冷凍グラタンが一つ、これも食べかけたままラップもせずに放り込まれている。ビニールパックに入ったグリーンサラダ。鶏のササミ。乾燥したぶどうパン。豆腐。大きさの違う生卵がごろごろ。

「ビアンキ、その歌好きだね。ムーン・リバーだっけ」
「そうよ。あんたが知ってるなんて思わなかった」
「京子ちゃんが好きなんだ、その歌」

ビアンキは床にあぐらをかき、そしてギターを抱えて庭を見ていた。古くて大きなギターだった。彼女はその歌を口ずさんでいて、白い肌はこんがりと焼けていた。俺が答えると、彼女は俺から目を背けて、やっぱり庭を見た。いつの間にか歌うこともやめていた。俺は少しだけ京子ちゃんのことを考えた、商談の為に日本に帰って来て三週間になるが、どうしてだか連絡し出せずにいる。

「弾いてくれる?」
「俺、ギターなんかできないよ」
「ちっとも弾けないの?」
「そう」
「隼人はとても上手に弾くわよ。ピアノもギターも、それからドラムだって叩くわ」

ビアンキが、俺を見上げる。信じられないといった様子で首を振る。俺は少し気分を悪くして――わかってる、彼女を相手取っていちいち気を止めること自体が彼女いわく“ナンセンス”なのだが――彼女に背を向け、リビングの明かりを付けた。眩しい、と彼女の唸るような声が聞こえる。開けかけの烏龍茶を冷蔵庫から出して、コップに注ぎ、リビングのテーブルについた。一口飲む。ビアンキはまだ床に座り込んでいる。

「あのチビのランボだって弾くのに」
「じゃあランボを呼んで来ようか」
「…いいわ」

彼女は首を振って、俺の顔色を窺うようにして、それからごめんなさい、と早口で言った。少し強く言いすぎたかもしれない。むきになってしまった。俺もごめん、そう言おうとして、

「すぐに弾けるようになるわ、ねえ、隼人に頼んで教えてもらえばいいのよ」

やめた。俺はあぁ、とだけ言ってコップの中身を飲み干す。のどなんかこれっぽっちも乾いてはいなかった。



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