欠ける月

 犬の声。飼い犬がやけに吠えている。山から聞こえる声に応じるように。
 狼か、野犬の遠吠えだ。
 その野犬は満月に興奮している。



「犬は、無駄吠えしないのに限る」

 泰衡は一口、酒で唇を湿らせる。

「昼のように明るいので、混乱しているのではありませんか?」

 相槌を求められたようだったので答える。下手に喋って主人の機嫌を損ねるのは本意ではない。
 杯を持つ手が下ろされたので、銀は酒を注ぎ足す。
 返答はなかったが、誤りではなかったようだと確認した。ただそれが正解かどうかはわからない。

 御簾から差し込む月光は本当に明るく、灯りが必要ないのではないかと思うほどだ。
 この光景を、どこかで見たことがある。

 銀は頭の中を探るように記憶を辿った。
 あの時も、このような月の夜で、同じく静かな酒宴が催されていた。
 同席していたのはこの声ではない。
 この漆黒の髪でなく、明るい色の柔らかい髪の持ち主であった。けれど、顔が思い出せない。

 庭から犬の声はしなかった。むしろ美しい声だった。
 あの時、御簾の外から見つめていたのは――。

 ふと、息をつく。
 やめよう。これ以上考えていては過去に囚われてしまう。
 主人に不信がられたくはない。少しでも妙な素振りは見せられない。
 この人と会う前のことを思い出そうとして、いつもできない。主が言うように思い出さないほうがいいのかもしれない。

 満ちた月を見て犬だけでなく、銀も気が高ぶっているようだ。
 自我を抑え、こうして仕えている方が気が紛れる。一人では何を考えるかわからない。

 泰衡を窺うと、こちらも少し普段と違うようだ。そういえば、こうして酒を飲むのは月の明るい日が多い気がする。
 心を動かすことの少ない泰衡にも、眠れぬ夜というものがあるということだろうか。

「昔のことを、考えていたのか?」

 内心を読まれている。目ざとい人だ。銀は驚いて目を開き、すぐに表情を戻す。
 やはり、記憶とは違う声だ。泰衡ではない人。
 こうして月見をしたのは誰とだろう。

「いいえ…何も思い出しません」

 溜息のように、主を怒らせないように静かに答える。

「過去を取り戻したら、貴様は俺のものではなくなるのだろうな」

 弱音を吐かない主の本音なのだろうか、それとも言葉遊びだろうか。いや、冗談を言う泰衡というのもあまりないと銀は考える。
 少し酔っていることは間違いないようだ。

「泰衡様にお暇を出されたら、私もあの山に帰るしかありません」

 外の飼い犬は少し前から静かだったが、遠吠えは聞こえていた。
 銀の回答は正しかったのか、やはり泰衡から返事はなかった。



20110810



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