歪む 後
月が明るい夜。
例のごとく、邸の奥、塗籠にいる敦盛にはわかることではない。
日はとうの昔に落ちているというのに、人の足音と振動が床に伏せて眠る敦盛に届いた。
こんな夜更けに誰であろうかと、感覚をそちらに集中させる。侍女のように軽いものでなく、兄のようにしっかりした足取りではなかった。
つまり、と敦盛は手の中の匂い袋を意識する。
それをくれた人と私的に会うことはもう半年以上なかった。
一時期は幾度も、敦盛に声をかけにきてくれていたのに、そのような暇がないのも道理である。戦は何度も起こり、一門に漂う空気は敗色に淀んでいる。
だが、たとえ日中が忙しいとはいえ、このような夜更けに人を訪ねるなど、常識外れなことをする人ではなかった。
足取りもなにやら違う気がする。舞を得意とする彼特有の足運びではなく、まるで床に触れていないかのようである。
「敦盛殿」
呼びかけられて、びくりと背を振るわせる。待ち望んだ桜梅の君の声でありながら、どことなく恐怖を感じる声色であった。なぜか暗闇に炎が揺らめく様子が思い出された。
「月見をいたしませんか」
かけられる言葉の意味を考える。
いつか通ってきていたときには、敦盛の願いを聞き届け外に出そうとはしなかった。
「私は貴方にお見せするような顔など…」
「忘れていませんか?」
え、と敦盛が口に出す前に閉められていた戸が開け放たれた。
わずかに室内まで届く月光は背の高い、立ったままのその人の顔を青白く浮かび上がらせていた。なぜ、夜だというのに戸締りがされず、月の光が入り込んでいるのであろうか。
「わたくしも最早人ではありません」
生気のない表情、血の気のない肌。二つの瞳だけがぎらぎらと輝いている。
言い知れぬ恐れを感じ眉を寄せるがすぐに気付く。自分もきっと同じ顔をしている。
二人とも髪を結わず、冠もつけていない。敦盛は寝巻きであるし、惟盛も着物を着崩し、質のいいはずのそれは皺だらけであった。
「散歩に参りましょう」
答えない敦盛を気にせず、惟盛は続ける。
「よい月夜です」
戸惑う。美しかった声音にも艶がなくなっていた。
「庭までなら誰も咎めません」
緩やかに弧を描いていた唇は顔と同じく真白である。
敦盛は横臥した状態から、半身を起こしかけた姿勢のまま。
「私はいつ鬼になるかわかりません」
「勾玉のかけらを持っております。これがあれば自我を失うことはありません」
惟盛が袂から取り出して見せたのは、匂い袋のようだった。
敦盛が貰ったものにそっくりではあったが、中身は違うようだ。言葉どおりのものが入っているのであろう。なんとも言えない力を放っている。
こんな小さな石のかけらでも神器である。発せられる力は敦盛にも感じ取れた。
惟盛は、立ち上がった敦盛の手にそれを握らせる。触れたその手は、温度を感じなかった。しかし冷たいとも思わない。自分と同じ温度なのであろう。
惟盛が一歩先に庭に向かって歩きだすので、敦盛は慌てて後を追った。惟盛も、勾玉のかけらが近くになければ辛かろう。
美しい月夜だった。庭に敷かれた玉砂利に反射してまるで昼のように明るい。しかし冷たい明るさであった。
惟盛は裸足のまま、地面に降りる。敦盛も短く戸惑ったがすぐに後に続いた。
慌てて追いかけてきては、ぴたりと自分の斜め後ろに控えようとする敦盛に笑いかけて、その手を取った。勾玉の入った匂い袋を持つ手に手を重ねる。
「何も起こらなかったことに、安堵しているのですか」
見透かされたようで敦盛ははっと顔をあげた。一瞬、昔のように柔らかく微笑んだ瞳は再びぎらついて、敦盛を怯えさせる。
「わたくしは人間のころのようにひ弱ではありません。昔のように弱くはないはずです」
月に照らされているからではない。怪しく揺らめく、彼の感情が目に見えるようだった。敦盛は眼を瞠る。
「あなたもそうでしょう」
何を口にすればいいのか、押し黙る敦盛を気にした様子もなく惟盛は朗々と喋る。
「戦に、連れて行って差し上げましょうね。一門のために我々は蘇ったのですから」
敦盛は、深く頷いた。はい、と答える。
既に、変化は起こっているようだ。惟盛は、姿こそ変わらないが昔の惟盛ではない。
しかし、異形となる自分がそれを否定できるわけもなく、否定する気もなかった。
惟盛は人一倍優しい人間であったから、魔性に身を落とすことに耐えきれず心を閉ざしてしまったのだ、と敦盛は思う。
月明かりに照らしだされる長身の男は昔のように美しく、重なる手のひらもただ変わらずそこにあるのに、その心だけはまるで知らぬ人のようだった。
20100626
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