積み上げる 前
望美が元の世界に帰ろうと言いだしてから、すぐに約束したその日は近づいた。
長引かせるほど別れ辛くなるからとは、望美が言った通りで、しんみりする暇もないくらいにその日がくるのは早かった。
もともと、着の身着のままで宇治川に辿り着き、戦禍に追われて平泉まで逃げ延びたときにも大した荷物はなかった。そしてそれを(元の世界へ無事持ち帰れるのかはわからなかったが)小さくまとめて荷物の準備は終わる。
後は、ここで世話になった人たちに一通りのあいさつを済ませる。
本当にそれだけの時間しかなかった。
夜が明ければ別れは来る。
日が沈み始める頃に始まった酒宴は、日が落ちて久しく終わる気配はなかった。
望美があえて期限を短く切ったことで、そこに湿っぽい雰囲気はなく、皆一様に朗らかな笑顔を浮かべている。
きっとそれぞれ思うところはあるだろうが、短い時間を沈んで過ごしてはもったいないと思っているに違いない。
平泉の総領から甕いっぱいの酒と、たくさんの料理が差し入れられていたが、皆に乞われて作った譲の料理は他の御馳走よりも早く無くなろうとしている。
「譲! お前も飲め」
空になりそうな皿を気にしていた譲に、将臣から声がかけられる。
酒を飲んでいるのを見るのは初めてではないが、こんなに酔っているのは珍しい。仇敵であった九朗と肩を組んで、酒を酌み交わしている。
二人とも楽しそうに。
「おつまみ、なくなったから持ってくる」
立ち上がって、二人の前にあった空いた皿を取った。
「ああ、頼む譲。譲の料理にもずいぶんと助けられたな」
「本当に。食事の質というのは士気に影響しますね」
九朗の言葉に弁慶も賛同する。
「褒めても何も出ませんよ」
望美と朔の前にあった皿も空になっている。それも手に取ると朔が視線を合わせた。
「あら、おかわりが出るわ」
「譲くん、一本取られたね!」
望美も少し、酒を飲んでいるようだ。そんな二人に譲は一瞬戸惑って、それから目を細めた。
皿を持って広間を出ようとする譲に再び兄の声がかかり振り返る。
「早く帰って来いよ。一杯やろうぜ」
「わかった。俺が戻るまでお酒、残しておいてくれよ」
「おっ、譲くん、おっとこまえー!」
望美の言葉にどっとその場に笑いが起こったのを、譲は背中で聞きながら満足げに微笑んだ。
そうだ、満ち足りているように楽しい。幸せだ。
だけど、それで胸がいっぱいになって、堪え切れず譲は泣いた。厨まで辿り着くのに間に合わず、涙は溢れだした。
慌てて厨に駆け込む。薄暗い明りが残されただけで、人はいなかった。
皆が泣かないように心がけているのに、泣いては駄目だと思う。しかし一人になると我慢はできなかった。
時間にして、そう長くはなかったはずだ。
だが、うずくまり、たった一人子供のように声を上げて泣いた。
胸を締め付けていたものが通り過ぎると、譲は水甕からすくった水で手拭いを絞り顔を拭いた。
あまり遅くなると誰かが探しに来るかもしれない。泣いていたら場を白けさせてしまうだろう。
湯呑にもいっぱいに水を入れて一息に飲み干した。
泣いていたのは明らかだろうが、再び泣くということは避けられるだろう。少し、落ち着いてきた。
後は、熱を持った目蓋が、少しでも平常に戻るといいが。
「譲ー」
遠くから足音と、自分を呼ぶ声が近づいてくる。
びくりと肩を震わせて、声が上擦らないように気をつけながら口を開いた。
「ここだ、ヒノエ」
声の主はひょいと厨を覗き込んだ。
あまり明るくないから、表情はよくわからない。相手からもきっとそうで、大泣きしていたとは気付かれていないはずだと自分を騙す。
実際のところは、ヒノエは人の言動に敏いから即座にばれているのだろうけど。
「おつまみの催促か?」
置いていた皿を取ってわざと明るく言うと、ヒノエはそこにあった下駄を履いて土間に降りた。
「いや、オレがあんたを催促」
え、と声を上げる間もなく譲の二の腕をつかむ。
「みんな、じゃなく俺を構ってくれよ」
譲の手から皿を奪って台に置く。
「酔っぱらってるのか?」
「そうだよ」
いつもより軽い笑いを譲に向けた。そして腕をつかんだまま、勝手口から外へ出る。
「ちょっ、…おい!」
遠くに宴席の声が聞こえる。月は雲に隠され、足元のおぼつかない暗闇。
長くここで暮らして、どこを歩けばいいのかわかってはいるが、人に手を引かれて歩くのは戸惑う。
「あんたと、話してなかっただろ」
急に立ち止まるからヒノエの柔らかい髪が頬に触れた。ふわりと、ヒノエが好む香の匂いがする。
そういえば最初であった頃はこの匂いもなんだか好きになれなかった。急に譲はそれを思い出した。
「そうか? 話しただろ」
「二人きりで、はない」
振り返って言われる。やはり、普通ではない。拗ねたような言い方に譲は違和感を覚えた。
「うん…そうだな」
でも、こんなヒノエも悪くない。
ヒノエは自分の言動の不自然さに今更気付いて、譲から手を離すとばつが悪そうに俯いた。
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