歪む 中
縦にも横にも十歩歩けば、それで敦盛の世界は終わりだった。
唯一外に繋がる戸は、本人の意思で閉じられていた。日中だけ僅かに陽光が差し込む程度である。
人ならぬ身となってから夜目が利くようになったのか、暗がりにいてもあまり恐ろしくはなかった。
それよりも日の元に出される方が恐れを感じる。
そもそも灯台は部屋にあったが、油が切れてから補充を頼むのが憚られ、灯りが途絶えて久しい。
侍女に気を遣ったというよりも、生きた人間と明るい中で対面することに恐怖を感じた。自分を見るときの、奇異の目を見たくはなかった。
それがまた侍女の敦盛に対する畏怖を深める要因であったが。
その戸の隙間からは笛の音が漏れていた。
惟盛はできれば月に一度はこちらに訪問している。すっかり慣れたもので、音に耳を傾け緊張を解いている。
やがて音が止む。
「いつ聞いても、すばらしいですね」
「私など…。久しぶりですから、うまくできたか不安です」
敦盛がはにかんでいるであろう表情を想像して、惟盛は目を細める。
褒められると謙遜して照れるのは、敦盛の昔からの癖だった。
「惟盛殿から、桜の匂いがいたしましたので春を愛でる曲を奏でさせていただきました」
「ええ、すっかり春ですよ」
「先日、清盛公からお召しがありましたので、そのときに私も拝見しました」
惟盛は表情を曇らせた。短く相槌を打つ。
敦盛がここから外へ出るのは、大きな行事のとき。そうでなければついに敦盛も戦に出ることになるのであろうか。
以前、自分は敦盛が戦場に出ることを良しと思わなかったが、清盛の命であれば誰も逆らうことはできまい。
源氏との合戦は徐々に苛烈を極めていた。
敦盛の、異形となった姿は一般の兵とは数段違うものだという。それを清盛は戦場に投入しようとしているのか。
確かにそれは、一門に勝利をもたらす喜ばしいものであることは間違いない。
それでも、我を失い、ただ殺戮を繰り返すだけの行動を誉めそやし、肯定的に受け入れてもいいものか。
既に一門の長である祖父が怨霊である以上、否定するわけには行かないのだが。
返事に戸惑う惟盛をわかっているのか、敦盛は平時と変わらず喋る。
「やはり春はいいですね」
「…ええ」
惟盛は庭の方向に顔をめぐらせる。実際には外が見えるわけではないが、どこからともなく柔らかい風が入り込んでいるのを感じる。
戦の話も、季節の話も、敦盛の声色は変わらなかった。会話の変化に違和感があったが、忘れることにしようと思った。
「どの季節も良いですが、花を見るにはやはりこの季節がいいですね」
「はい、厳しい冬を越えた自然というものはそれだけで輝いているようです」
それに、と敦盛が言うので扉を見た。その向こうに対面するように座っているであろう敦盛に向き直る。
「桜は、惟盛殿を思い出すので」
弾んだような声が次第に小さくなる。照れているのだろうと容易に想像がついた。
惟盛は嬉しくなって懐から匂い袋を取り出すと、揃えた膝の先、床の上に置く。
絹でできた、薄桃色の小さな袋。
「敦盛殿に差し上げますね」
「え?」
惟盛の行動が見えない敦盛はきょとんとして声を上げる。しかし惟盛は悪戯っぽく笑うだけだった。
もちろん、その表情は敦盛には見えていないが。
「それでは、わたくしはこれで。また笛を聞かせてください」
戸惑っているであろう敦盛を置いて、惟盛は足早に立ち去った。
背中で扉の開く音を聞いたが、わざと気付かない振りをした。
次に会ったとき敦盛は子供のように声を弾ませて、何度も礼を言った。
敦盛が何も礼ができないと恐縮するので、惟盛はまた笛の音を求めた。
私の笛でよければと、そう口にしつつも敦盛は聞く人のいる状態で笛を吹くのが嬉しくてたまらないようだった。
何も、灯りも何もない敦盛の部屋に、ほのかに香りを放つ匂い袋があった。
絹の触り心地。施された刺繍。それを大事に手の内に抱え込んで、眠りにつく。
幸福だと思った。久方ぶりの幸福。
きっとこのまどろみから覚めたら、再びこの香りを纏った人がやってくる予感がする。
いや、来なくとも、惟盛の手を煩わせずともまるでそこにいるように感じた。
一人ではない。自分を気にかけてくれる人がいる。
たった一人の座敷牢で、一人寂しく眠るのではない。孤独が和らいでいく。
桜の季節が終わり、夏や冬が通り過ぎ再び桜の季節が来ても、敦盛はそれを手放すことはなかった。
経正に呼び止められたのは、敦盛のところに何度通った後だろうか。
話があると言う経正が人気のない釣殿まで行こうとするので、何か人に聞かれてはならない話であろうことはわかった。
「敦盛に目をかけてくださってありがとうございます」
経正は切り出し辛そうに、ようやく言った。
言葉の意味と違いなぜそんな顔をするのかと、惟盛が考えていると次の言葉が来る。
「ですが…会うのは止していただけませんか」
どうしてそう言われたのかわからず、惟盛は眉を下げる。
「わたくしは敦盛殿と顔は合わせておりませんよ。戸越しに言葉を交わしただけで」
敦盛が顔を見られたくないと望んでいたことだろうかと、惟盛は弁明するが経正は更に面持ちを硬くするだけだった。
「敦盛は人間ではありません。…いつか…自我を失して、貴方に危害を加えることもないとは言い切れません」
視線を落として床の一点を睨み、搾り出すように言う。言いたくないのだ。数歩離れただけの惟盛にもようやく届くほどの声量だった。
惟盛は目を瞠った。
「そんな」
「貴方もご覧になっているでしょう。怨霊となった兵たちが浅ましく人の命を喰らうのを」
経正は、顔を上げ声を張り、訴えかけるように言った。
弟もいつかそうなるなどと認めたくはないだろうに、それを想定して惟盛に忠告するのはどんなに辛いことだろうか。
自分が敦盛のためと思って行動していたことは、随分と経正に心痛を与えていたのだろうと思うと情けない気持ちになった。
「敦盛も、いつか…」
「わかりました」
経正が更に眉間に皺を寄せて口を開こうとするので、惟盛は遮った。
これ以上、自分自身を傷付けるような発言をさせてはならないと思った。
「貴方のおっしゃることは、よくわかりました」
惟盛は経正の悲愴に満ちた目を見つめ、ゆっくりと深く頷いた。
自分が敦盛を構っていたのは、敦盛のためだけであっただろうか。哀れな年若の親族を気遣う自分を作りたかっただけではないのか。
ただの自己満足に過ぎなかったのかもしれない。
面会を拒む敦盛に恩を着せ、その兄には要らぬ心配をかけ、ただ優しい自分を演じていたかっただけなのではないか。
経正にとって愛する弟の、狂う姿を見られたくないというのは当然のことだ。弟の尊厳を守るために。
そして、経正が弟を構わなかったのも、よく考えればわかることだった。弟が弟でなくなっていく様を見ていることなど、弟を大切に思っていればいるほど耐えられることではない。
弟を人に見られず、見ずとも済むように弟を箱に押し込めたのだ。
惟盛はようやくそれに思い当たって、眉を寄せた。
なんと自分は浅慮であったのだろうか。
「ありがとう…ございます」
惟盛の表情の変化を読み取って、経正は頭を下げた。
「いいえ、私は何も…」
ゆるゆると首を振った。惟盛は呆然としていた。
本当に、本当に自分は愚かな人間なのだ。
経正が戦場で命を落としたのはそれからすぐのことであった。
惟盛は、経正との約束を守って敦盛と会ってはいなかったが、経正の葬儀で久しぶりにその声を、そしてその顔を見ることとなった。
しかし、惟盛は経正をはじめ多くの命を散らせたことに憔悴していてそれを気遣うことはできなかった。
ただ、涙を堪えようとして抑えきれず漏れる悲痛な嘆きが耳について離れなかった。
戸の向こうから聞こえた記憶の中の明るい声と比べて、なんと辛い響きであったことか。
惟盛が自ら命を絶った。
すべてを投げ出した。
親族や兵たちの息絶える姿を見ることも、一門を背負わされることも、叱責されることも耐えられなかった。
我侭で、臆病で、惰弱で、何の役にも立たない自分などいなくなってしまえばいいと思った。
経正は弟を心配して黄泉還った。弟を忌み、人目からとにかく隠そうとしていた兄が、弟を残してきたことが心配で戻ってきた。
この世に未練があるのか。やはり、弟思いの兄だったのであろう。
自分には未練などない。
惟盛は確かに、この世と別れたつもりだった。
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