歪む 前
朝か昼か、夕方なのかよくわからなかった。ただ陽射しがある時間であることしかわからなかった。
敦盛は灯りのない、真っ暗な部屋にいた。
聞こえる足音が、いつもと違う気がして敦盛は眠りから覚めた。
人であった頃よりも随分と聴覚が鋭くなった気がする。
足音は、侍女のように体重の軽いものには思えなかったし、兄などのようにしっかりとした足取りには思えなかった。
まるで舞うような軽やかな足運び。そんな歩き方をする人間が、この邸に来ることがあるだろうかと敦盛は考えをめぐらせる。
「敦盛殿」
ひっそりとかけられた声は、久しく聞いていなかったもので敦盛は驚く。
跳ね起きて、声の聞こえる扉に向かって居住まいを正した。
細く陽光が差し込む戸の隙間から、声が滑り入る。
「突然、申し訳ありません。ご連絡もせずにお伺いしてしまって」
続けられた言葉にすうっと心が落ち着くのがわかる。
柔らかな表情が先に思い出される。
穏やかな眼差し、豊かに波打つ髪、優美な唇から紡がれる言葉。
「…惟盛殿」
「休んでいらしたわけではないのですね、よかった」
久しぶりに言葉を発すると乾いていた喉がひりつく。そんなにも長い間、言葉も食べ物も、何も口にしていなかったのかと驚くが、それよりもこの名前を唇に乗せることができたことによって心が動き始めるのに気付いた。
「こちらにいらしてお話いたしませんか?」
手が戸にかけられたのに気付いた。無理に開けようとしているわけではないが、かたりと音がしてそれがわかる。
扉の外から、敦盛が想像するとおり昔見たままの白い手が開けようとしているのであろう。
「開けてはなりません」
思わず強い言葉が発せられたことに自分ながら驚いた。戸を隔てた向こう側にいる惟盛が息を飲むのがわかった。
止まっていた感情が動く。ないはずの心臓がざわめく。
「開けないでくださいませ。私は、貴方がご存知の私ではありません」
「しばらくお会いしていなかったので、お顔を見たくて参ったのですが…少しだけでも、叶いませんでしょうか」
私も、懐かしい貴方のお顔を拝見したい。
敦盛はそう思ったが、もちろんその言葉は飲み込んで、口を開く。
「私は、既に人ではありません。きっと、鬼のような顔をしているでしょうから。貴方にそれを見られて、失望されたくはありません」
お願いです、と敦盛は続けた。惟盛はため息のように短く息を吐き出す。
「わかりました。無理は申しません」
「…ありがとう、ございます」
敦盛は目を閉じると扉の向こうにいる惟盛に向かって手を付き、深く頭を下げた。
扉の向こうから、雰囲気を変えるためわざとらしい咳払いが聞こえた。顔を上げる。
「敦盛殿が黄泉から還られてから、こうしてお会いしたいと常々思っていたのですが、何かと騒がしくてそうもいきませんでした。今日は、こちらの近くに寄ることがありましたので、少しでもお会いできればと思ってこうして参ったのですよ」
惟盛の声は、弾んでいるように聞こえた。この声色の時の顔が、敦盛には簡単に想像が付いた。
惟盛とは生前懇意な間柄であった。年若い敦盛を何かと気にかけてくれていたので、敦盛は兄のように慕っていた。
惟盛と会うのはずいぶんと久しぶりに思える。
現世に戻ったとき、親族に迎えられたというが記憶にない。死んだ瞬間からしばらく、記憶は朦朧としていてあまり覚えていないのだ。
「私も、惟盛殿の声を聞くことができて、とても嬉しいです」
でしたら、と惟盛が戸ににじり寄る気配がした。それでも扉には触れようとしない。敦盛との約束を守ろうとする彼のそういう性格を、敦盛は素直に好感を抱き、敬意を感じ、そして有難いと思った。
「またお話をしに参ってもよろしいでしょうか?」
敦盛は胸が高鳴り、頬が温かくなるのに気付いた。
まるで生きていた頃のように。
惟盛の申し出を断るはずもなかった。
漆黒に近い塗籠の中で、彼の来訪は敦盛にとって大きな喜びであった。
狭い部屋では、何をするというわけでもなくただ意識を封じ込めている。今日が何日なのか、侍女が一日に何度出入りするのか、よくわからなかった。
その永劫続くと思われる暗闇に、彼は輝きをもたらしてくれる。
惟盛は再び邸を訪ねた。忘れ去られたようにひっそりとある、窓のない部屋の戸の前に座ると中から声がする。
「惟盛殿がいらっしゃって、私は本当に嬉しゅうございます」
途中ですれ違った侍女たちは惟盛を含みのある目で見ていた。
敦盛に情けをかけていると思っているのだろうか。それとも物好きと思っているのであろうか。
化け物、と敦盛が疎まれていることは知っている。ここに閉じ込められることになったきっかけも。
それでも惟盛にとっては愛らしい弟のような存在である。彼を気にかけることを誰に咎められるものではないし、恥じることではないと信じている。
「最近は兄上もあまりいらっしゃいませんから」
敦盛の言葉に、惟盛は眉尻を下げた。ああ、と短く悲嘆の声が聞こえて、敦盛は話の選択を間違ったと思い今度は殊更に明るい声を出す。
「兄上はお忙しいのでしょう。一門の人間として、立派にお勤めされていると伺いました。それだけで、敦盛は幸せ者です」
「度々こちらにおいでになっているものと思っていました。経正殿はよく貴方のお話をされているので」
今度は、敦盛が短く息を吐いた。この人を困らせるつもりではなかったのだ。きっと美しい形の眉を寄せているに違いない。
「兄上は私などのことをお気にかけてくださっているのですね。それで十分です」
敦盛は努めて声を張った。惟盛は納得はしなかったが、自分の態度が敦盛に気を遣わせていることに気付いて気を取り直す。
「ええ、経正殿は本当に貴方を可愛がっているのですよ。もちろん、当人の貴方が一番ご存知とは思いますが」
経正は生前のようには敦盛を顧みなかった。
敦盛が死反したときは、今まで見たこともないほどに喜んで、子供の頃のように抱きしめられたりもした。
しかし、生き返ったように思えた弟は、時に自我を失い暴れるのだ。ここに閉じ込められることになったのも、侍女を手にかけてしまったからだ。
そのときを思い出すと、ずきずきと頭が痛む。どうして、その侍女を殺してしまったのか、殺した瞬間すらも敦盛には記憶になかったが、兄が自分を見るその目を忘れることはできない。
あれは、拒絶だ。
兄と、自分のいる領域は既に違っていたのだ。そうだ、自分は生きていないのだから。
兄が自分を見る目はそれから変わってしまった。哀れみを帯びて、それでいながら直接情けをかけようとはしない。
そんな目で見られるとき、敦盛は自分が異形のものになってしまっているか、まだ返り血を纏っているのだと感じた。
惟盛は、敦盛と経正との子供の頃の思い出を話している。
それに敦盛は微笑み相槌を打ちながら、なぜあの頃に戻れないのだろうかと考えている。自分が半年ほど前に死んだとき、それが寿命だったとしたら、それを曲げてここにいる自分はなんだというのだろう。
自分が死んだとき、兄も皆も悲しんでくれたというが、それでなぜ終われなかったのだろう。
惟盛は、幼かった頃の敦盛を思い出し、常にそばにあった経正の顔を浮かべる。
経正には潔癖なところがある。
敦盛をきっかけにしてか、兵士が幾人も黄泉から戻っている。怨霊となったそれを、清盛は躊躇なく戦に使っていた。
それを経正はよく思っていない。
惟盛は、怨霊を忌み嫌う経正を見ていたから、こうして狭く暗い中に閉じ込められる敦盛を不憫だと思った。
経正が弟をも疎んじているとは言わないが、そういった感情がまったくないとは言い切れないのかもしれない。
とりとめもない話だったがすぐに時間は過ぎていった。立ち上がろうとする惟盛の気配に、敦盛は胸が締め付けられた。
「また、いらしてくださいますか?」
思わず引き止め、女々しい言葉を吐き出す。
「私はここにいると時折絶望するのです。誰も私のことを忘れてしまっているのではないかと。…誇り高い兄上には、人間でない私がとても厭わしいのでしょう」
恥ずかしい。なぜ涙声になってしまっているのだろう。
言葉の意味を考える前に、唇からそれが零れ出すのを止めるのも間に合わない。
「私が怪物になるというのでしたら、私も戦で役に立ちとうございます。このように忌み嫌われて、閉じ込められているよりはずっといい」
敦盛は顔を歪めて、涙を零した。今まで誰にも口にしなかった弱さが突然溢れだしてくる。
「惟盛殿、私も戦にお連れください。生前の私では無理でも、今は必ずお役に立って見せます」
惟盛は驚いて、息をのんだ。今まで敦盛は、戦を嫌っていたように思えたのに、こんなに追い込まれてしまっている。
それもそうだろう。ただ、こうして座敷牢に繋がれて、時が過ぎるのを待つのみ。生きているも死んでいるも同じだ。
惟盛は改めて、彼の境遇を考えてぞっとする。けれど、その言葉に頷くことはできない。
「敦盛殿が、戦に巻き込まれたら、経正殿が悲しみますよ」
しかし、どうなだめていいものかわからない。
「私は、やはり兄にさえ恥ずかしいと思われる身なのですね」
「それは違います」
敦盛は、一度死んではいるが、それ以外は人間のときとまったく変わらない。それが、このような狭い部屋に閉じ込められて、狂うなというほうが無理な話だろう。
敦盛はふいに頭が冷えた。今自分は何を口走ったのだろう。敦盛は嗚咽を止めようとして衣の胸元をぎゅっと握りしめる。
「敦盛殿」
「も、申し訳ありません。今のことは、何も聞かなかったことになさってください。私が世迷言を吐いたなど…兄上には内密にしてくださいませ。…兄上のご心痛を増やしたくはないのです」
どうにか、涙は押しとどめられたようだ。少しは、弱々しい声ではなくなっていたはずだ。
惟盛は短くなく逡巡して、口を開く。
「わかりました」
「ありがとうございます」
敦盛が礼を述べると惟盛は今度こそ立ち上がった。
「また参りますね」
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