あの世で愛しあえるなら


 濃厚な蜂蜜にバニラを混ぜたような、そんな柔らかい香りがした。それから、ゆっくりと唇に何かが触れる。額に流れた髪を細い指が撫ぜている。
 無防備にもキスをされたのだと認識するまで、たっぷり二秒は必要だった。

「……あの」
「あぁ、ごめん。あんまり気持ちよさそうに眠ってたから、つい」
「それ、理由になります?」

 だめ?と、二人の間を満たす香りの正体になっていた液体と氷の入ったグラスを傾けた後、彼女は再びそっと顔を近づけて来た。朱を引かなくとも、存分に熟れた苺のような紅い唇が今度は鼻先に触れる。髪を撫ぜていた手は今や頬を包むように移動していた。
 至近距離で、まるで品のいい猫のような瞳に見下ろされる。すこし色素の薄い、焦茶色のまあるい彼女の瞳の中に映る私の姿が幾度か震える。
 どうやら彼女は泣いていたらしい。

「理由としては……些か認め難いかな、とは」
「じゃあ……キス、したかったから」
「まぁ、いいでしょう」

 未だ頬に添えられたままの彼女の手をそこから奪うように握り、もう片方は形の良い後頭部へ回して距離を更に詰めた。そして、今度はこちらからその形の良い唇を喰むように口付ける。
 待って、溢れる。とグラスの中身を案じて彼女は僅かに身を引いたが、時すでに遅し。熱を孕んだ口内に舌を滑り込ませれば、ビクリと震えた身体が一瞬力を失ったあと、ぱたぱたとシーツに液体の滴る音が響いた。さらに濃く放たれ辺りを満たすウイスキーの香りと、甘い吐息が混ざり合う。
 中身のなくなったグラスを持ち続けることは諦めたらしい彼女の左手が、この胸を何度か打つまであまり時間は掛からなかった。殊更しっとりと水気を帯びた網膜の中で微笑む。

「どこで……っ、覚えてくるの、っそういうの」
「さぁ。どこでしょう」

 乱した息を整えながら、彼女は少し笑っていた。いつもは凛々しい眉が、情けなく下がる。すっかり男になっちゃって。ぴたりと胸に頬をすり寄せる様はまさに猫のそれのようだった。
 髪色変えました?と柔らかな髪を撫ぜれば「ずいぶん前にね」と緩やかに上体を起こして彼女は言う。未だに憂いを帯びたままの瞳に見下ろされた。以前の自分だったなら、そんな彼女の纏う空気に気圧されて息を呑んだだろう。けれど、ここ数年で起こった出来事や環境、心境の変化がすっかりそうはさせなくなっていた。

『すぐる』
 
 2人きりの時、いつだって彼女は自分を名前で呼んだ。たっぷりと甘い蜂蜜みたいな声色で、とろりと囁くように。

「ね、夏油くん」

 生憎、変わったのは自分だけではなかったようだ。蕩けるようなキスはしても、この名を呼んではくれなくなったのか。泣きそうな顔をしながら、厳しさを孕んだ声が震えるように唇から滑り落ちる。

「なんで呪詛師になんてなったの?」

 頬へと伸ばした手はあっさりと払われた。怒りと哀しみがないまぜになった難しい表情をして、彼女はもう一度「なんで」と口にして涙を溢した。
 それを望んでいたわけではなかったが、もうどうしようもなかった。

「聞いてもきっと、面白くありませんよ」
「それ、面白くなきゃだめ?」
「さあ……どうかな」
「無理、してない?」
「そう見えました?」

 静かに頬を伝う雫。拭うことすら許されず、ただただ幼子のようにはらはらと大粒の涙をその瞳から流し続ける彼女を、不躾にも美しいと思ってしまう。どんなに凶悪な呪霊を前にしても、強敵と対峙して凄惨な場面に出くわしても、時に意地悪なセックスをしても、いつだって余裕な表情を崩さなかった彼女が、今目の前で感情を殺すことなく静かに泣いている。

「人はそんなに簡単には変われないよ」
「そんなことはないさ」
「じゃあ証明して……」

 細い首に手を掛ける。片手で十分だった。
 指先から順に力を込めれば、彼女はたっぷりとこちらを眺めた後、その目蓋を閉じた。

「わたしはもう貴女のことだって」
「……そ、んな……かおっ……」
「躊躇うことなく、殺せてしまうからね」
「みた、くッ……な、か……った……な……」

 せめて最期はこの名を呼んでほしかったと、まだ温もりの残るその身体を抱きしめて、再び眠りに落ちた。
メンヘラ夏油くん。
20240130



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