すべて綺麗な思い出にして



どうしようもない程に遠い空に伸ばした手のひらから指先に張り巡らされた神経が、風を拾って心地よく冷えていく。そして頬にあたる陽の光は偽物でも、その温度は確実に自分の身体を温めた。丁寧に整えられた柔らかな芝が首元で微かに揺れる。吸い込んだ青い息が肺に芳しい。

「また来たの、少年」

自分と空の間に割って入った笑顔は満足そうに紡ぐ。月の光を閉じ込めたような青白い髪がさらさらと揺れていた。彼女はこの土地の所有者だ。
そして、美星学園の裏手に広がる森を抜けたところに位置するこの場所は、市街地とは時の流れが僅かに違うようだった。手入れの行き届いた芝生の上で微睡みはじめてからまだ30分と経っていなかった。都会の喧騒は程遠い。

「また来ちゃいました」
「君、美星の学生でしょ?エリート学校の生徒がこんなところで油売ってていいの?」
「今は丁度テスト期間だから。生憎成績も悪くないもんで、時間はたっぷりあるんですよ」
「そう。なら少年、暇潰しのついでにウチでお茶でも飲んでく?」

自慢じゃないけど美味しいクッキーも焼けたから、と差し出された手を握る。ほっそりとした手首とは裏腹に皮膚の厚い指と掌に出来た豆の痕が当たる。彼女が植物の世話を趣味にするただか弱いだけの女性でないことは随分前から気付いていた。
背丈は自分とさほど変わらないが、オーバーサイズのパーカーに隠れた身体はその手足の細さから察するにとても薄いのだろう。それでも、健康的な筋肉の筋が見える脹脛やある程度ついた肩幅、一見重量感のあるプランターをさして苦しそうに持ち上げないあたり、間違いない。彼女はただの女性ではない。

「ウチで採れたハーブを生地に練り込んでるの。ローズマリー、知ってる?」
「勿論、知ってますよ」

優しい飴色をした木製の器に並べられたクッキーを一枚取れば成る程、微かに甘みを帯びた爽やかな香りが鼻腔を掠める。そして、一口サイズのそれを言われるがまま口に放り込んだ。
ほろほろと崩れる食感と、瞬く間に口内に広がったのは清涼感のあるローズマリーの香りと微かなバターの優しい風味。甘さは極力抑えているようで、飲み込んだ後に僅かに舌に残る程度だった。

「美味いですね」
「でしょ?」
「たしか、ローズマリーの花言葉は記憶、追憶、それに思い出……だったかな」

2枚目を口に入れれば、少し驚いたような顔の彼女と目が合った。手には葫蘆のマグカップ。ほんのりと立ち上る湯気とレモンの香りが部屋を流れる。

「あまり人の目に晒される場所にしたくなくて……ほら、死んだ理由がああだから。知らせなきゃいけない身内も殆ど居なかったし。でも、そんな姉さんの墓だけど、俺が行くたびにいつも綺麗に手入れされた花が生けてあった。それも四季折々の色んな花。それを見て俺は、姉さんがひとりぼっちじゃなかったんだって……安心したよ」

窓の外には燦々と降り注ぐ人工の陽の光。所狭しと並べられたプランターの中には活き活きとそれを浴びる色とりどりの花。真っ直ぐに茎を伸ばして、葉を広げ、まるで虫だけでなく人まで誘惑するみたいに鮮やかな色を惜しげもなく発している。そして自分もその光景に魅せられた1人だった。

「貴女なんでしょう?」

姉の死後、軍からの手続きの要請で人事部へと赴いたのはほんの数日前だった。そんな中、偶然見つけたのが彼女の退役手続きの書類で、生前の姉との会話でも何度か彼女の名前を耳にしたこともあり、気付けば書類を手に取っていた。まさかそれが、近頃自分が何をするでもなく……いや、正確には現実から目を背けたくて、認めたくなくて入り浸っていたその場所の住人と同一人物であるとは思いもしなかったが。

「アリス・ウォーカーさん」

揺れる瞳が伏せられた。掠れるような声が耳に届く。
許して、と。たった一言、溢れ出た響きに心が締め付けられた。彼女は何も悪くない。そうすることを選んだのは、紛れもなく姉自身だ。
あの花達には贖罪の意があったのだろう。マリーゴールド。勿忘草。フリージア。ガーベラ。ゼラニウム。エーデルワイス。それから、ジニア。全てが友を想う、思いを尊ぶ花言葉を持っていることは調べて分かった。

「ごめんな、さい……あたしは、なにもッ」
「姉のために泣いてくれる人がいて、嬉しかった」

崩れ落ちる身体を抱きとめて、許しを請う背中と震える手を握り締める。冷えたこの手で彼女は毎日のようにあの花達を慈しんでは心を痛めていたのだろう。
何もできなかった無力な自分。その気持ちは他の誰よりも分かる。

「もう、大丈夫」

だから、どうか姉と過ごした時間は綺麗な想い出としてその胸に静かに葬ってやってほしい。きっと、貴女や俺が1人抱えて生きて行くことを姉は望まないだろうから。

「……ありがとう」

心が暖かいのはきっと、窓から射し込む陽の光の所為だけではない。

心に花を咲かせましょう

出会ったのは偶然。それでも引き寄せあう何かがあって、後から考えれば必然だったのかもしれないだなんてとりとめもなく思う。愛でもなければ、恋でもないし、ましてや友情でもないのだけれど、それ以上にもっと深いところで混ざり合う気持ちに不思議と眠れない夜が消えた。

あとがき

唯一の肉親である姉を亡くしたミシェルはきっと、その性格が故に誰にも頼らず、縋れずにいたんだろうなと思ってしまったが故に出来たお話。人知れず孤独を感じながら同じように何も出来なかった自分を恨むことでしか生きていけないアリスを見つけて、彼女と自分を許し、救うことをジェシカへの餞けにしてもらえたらいいと思います。そんな自己満。
20180101



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