君は僕のヒーロー



 脳内で強かに繰り返されるあの人の言葉に、未だ大きく鳴り響く自身の心臓の鼓動が重なりあっていた。手にしたスポーツドリンクのペットボトルを強く握りしめれば、軽い音を立てて表面がほんの少しだけへこむ。所詮、私の力はその程度のもの。

 "役に立たない"

 たった一言が、いつもよりも胸にずうっと重くのしかかってきた。

「あれ、伊地っちどーしたの?」

 まるで春風のように突如として現れた彼女ーー橘さんは「いつにも増して暗い顔してんねぇ」と隣に腰を下ろした後、口から出した棒付き飴で此方を指した。キャラメルのような甘い香りが鼻先に届く。ちゃんとご飯食べてるぅ?と、屈託のない笑顔が傷んだ心に些か沁みる。

「はい。ただ……さっき五条さんに、」
「まさか、まぁたパシられた?」
「……術師をやめろと言われました」

 面白半分で言葉を割り込ませた橘さんだったが、ピタリと揶揄うのをやめ、再び手にしていた飴を口内に戻すと「ふーん。りゆーは?」とコロコロとそれを弄ぶように転がしながらじっとこちらを見つめる。

「役に立たないからと」
「ハハ、先輩っぽー。ちょーストレート」

 ガリ、と飴の砕かれる音が彼女の口元で響く。そして「まぁ、実際そうだもんね」と渇いた笑い声に視線を送れば口角こそ上がってはいるものの、深いその緋色の瞳は酷く冷めた色をしていた。
 あぁ、やはり橘さんもそう思っていたのか。
 それもそのはず、彼女は七海さん達と同じく私の一学年上の先輩で、そんな中でもズバ抜けた実力の持ち主だと入学当初から話題になっていたような人だ。実際、幾度か同じ任務に就かせてもらったこともあるが、後方支援である私の存在など微塵も必要ないと言わんばかりにその任務を一人で十分にこなしてしまっていた。私が彼女の役に立ったことと言えば、提出する報告書の誤字を正したことくらいだろう。それだけのことにも「さっすが伊地っちぃ!」と屈託のない笑みを浮かべて、チョコレートやクッキーなどをお礼と称して手渡してくれるようなそんな彼女だった。内心は私レベルの人間が隣で幾ら喰らいつこうが、所詮は弱者の悪足掻きだと、そう感じていたに違いない。
 何せ、あの五条さんですら"アイツはそこそこ使える"と評価しているくらいなのだから。彼女と自分との力量は、雲泥の差。

「で?やめるの?」

 噛み砕いた飴の棒を咥えたまま器用に言葉を紡いだ橘さんは、ゆったりとソファーの背もたれに頭を預けて天井を見上げていた。
 正直な話が、五条さんの言葉は全くもってその通りで、反論の余地どころか否定の言葉など何も出てこなかった。現に、彼女のように有能であれば、あんなことはきっと言われずに済んだはずだ。
 役立たず。足手まとい。邪魔。どけ。帰れ。よっわ。
 散々言われ慣れた言葉たちが脳内を駆け巡る。なんと答えて良いのか分からずに、まごつく自分に浅いため息が届く。橘さんは天井に顔を向けたままの状態から視線だけをこちらへと寄越していた。

「答え出てんじゃん」

 しょーもな。と言う言葉を隣に残して立ち上がった彼女は、まるで踊り子のように振り返るとニコリと笑う。静かに薫る炎の色をした瞳に真正面から見つめられ、途端に居心地が悪くなる。どちらかと言うと顔立ち自体は幼さのある橘さんだったが、間違いなくその視線は時として人を畏怖させるだけの力があった。
 そしてそれは、彼女と対照的に氷のような涼やかさを放つ五条さんの青い瞳に射抜かれたときによく似た感覚を覚えさせる。生き物としての格の違いが、実際は見えもしないのに目の前にすっと引かれる感覚。例え、手を伸ばしたとしても届くことのないその距離を埋められる術を生憎私は持たない。それでも、出来る限りのことを……だなんて、綺麗事。
 いつ死んだっておかしくないこの世界で、一体いつまで息をしていられるのだろうか。痛い思いはしたくない。怖い思いもしたくない。けれども、どこかで強くならねばとは思っている。なのに、結局蓋を開けてみれば、平気で自分達のような人間を置き去りにしてしまう彼等の存在に食らいつくこともできない。

「迷うんなら辞めな」

 見透かされていた。術師として生きていくのに、迷いがあることを。自身の浅い限界を理解しながら意地汚くもがいている今の私に、呪術師として誰かを救うだなんてことは到底できない。この身を守ることで精一杯だ。

「……ですが、」
「そこでイヤです。続けますって食い気味にでも言葉が出てこないんじゃ、ロクな死に方しないよ。伊地っち、術師ナメてんの?」

 彼女の顔から一切の笑みが消える。
 
「まぁ言えたとしても死ぬ時は死ぬんだけど」

 五センチ程の細くて白い飴の棒を指先で彼女が弾けば、瞬く間にそれは私の後方、数メートル離れたゴミ箱に放物線を描きながら吸い込まれていく。
 思わずソレを追いかけていた視線を目の前に戻したころには、膝に手をついて瞳を合わせる橘さんの顔が僅か拳一個分の距離を開けて待っていた。
 むかないことは、しない方がいい。驚くほど冷たい声が耳朶に低く、低く響き渡る。こんな彼女を見るのは初めてだった。

「伊地っちはさ、あたしや先輩たちみたいな術式も才能もないし、かと言って体術とか戦略……別にずば抜けてる何かがあるわけでもないじゃん。そもそも戦場向きじゃない」

 普段はへらへらと笑って過ごしている彼女。任務の時でも、その余裕のある笑みが消えたことは決してない。唯一、その笑顔が愛らしい顔から消えるのは、五条さんといる時くらいだ。
 弱くて、役に立たなくて、度胸もなくて。そんな自分に彼女は呆れているのだろう。何も間違っていない言葉たちが、ただただ改めて突き付けられる現実に、思っていた以上に胸が苦しくなる。五条さんに言われた時よりもずっと辛い。

「伊地っち……死に急ぐ必要なんてないよ」

 え。と乾いた音が確かに自分の唇から溢れた。目の前で情けなく下がる眉。緋色の瞳が穏やかな温もりを取り戻していくように細められる。

「無駄に誰かが死ぬのってさ、やっぱ気持ちのいいもんじゃないし。あたしはそれに慣れたくない」

 あぁ、そうか。彼女は、強いからこそ……失う痛みを、残される哀しみを、知っているのだ。
 死ねばそこまで。痛みもなければ、恐怖もない。ただそこに待つのは虚無。けれど、生き抜く力があれば痛みも、恐怖も、哀しみも何度だって容赦なく降りかかる。そうして彼女は誰かを失うたび、心を痛めてきたのだろう。

「伊地っちが弱いから守られるんじゃない。
 あたしの方が強いから勝手に守りたいだけ」
「橘さん……」
「惚れちゃダメだからね」

 すっと姿勢を正した橘さんは、茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべると何やらポケットを漁ってから「ハイ、あげる」と一本の棒付き飴を私の手に握らせた。薄い紫の包み紙が捻られた隙間から、今度はミルクティーのとろりと甘い香りがした。

 そして数日後、私は呪術師として人生を全うすることを諦め、補助監督の道を生きることに決めた。彼女が望む誰かを守れるように、少しでもサポートできればこの人生もなかなか悪くない気がした。



生憎ヒロインにはなれないけれど

「きっと、伊地っちにしか出来ないことがあって……
 先輩はさ、それを見据えてんじゃない?
 なんせ天下の六眼持ちよ?」
「そうでしょうか」
「あ。ごめん、ちょっと盛った」
「何々、俺の話?」
「あ、別に呼んでないんでしれっと会話に入ってくるの、やめてもらっていいですか」
「お前、相変わらず可愛くないね」
「先輩は相変わらずカッコイイですね。
 だから早めに禿げてしまえ」
「おい!」


あとがき+α

伊地知くんと先輩のお話。
伊地っちて誰かに呼ばせたかったところから始まったなんて口が裂けても言えない←

20240411



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