ロマンスはめない



 このひと月、ろくな休みはなかった。けれどもそうなるかもしれないと、覚悟はしていた。
 いつだってこの世界は人手不足。年々増え続ける災害や不況を肥やしに力も数も高まる呪霊に対して、悲しきかな比例して膨らんでいくのはこちら側の脱落者。祓っても祓ってもキリがない。一向に終着点が見えやしない。もう何人の仲間を失ったのかも分からない。
 それでも私がこの道から目を背けずにに歩いてきた時間は事実だ。自分を信じることで、なんとかやって来れた。大丈夫。何かを終わらせることはいつだって、誰にだって出来る。だからせめて、私だけでもーーそう思っていた。

 でも……さすがに、疲れた。

 身体の節々が悲鳴を上げている。熱めの湯をたっぷりと沸かせて、久方ぶりに湯舟の中で身体を労わった。満足に食事を取る時間もなかったはずなのに、不思議とお腹は空いていない。それとは裏腹に喉はカラカラだ。
 最後に開けた記憶すら曖昧な我が家の冷蔵庫には、ものの見事にロクな食材など入っておらず、気休め程度の調味料たちと何本かの缶ビール、期限の切れた牛乳がとても静かに佇んでいるだけだった。
湯冷めしないうちにと冷えた缶ビールを一本取り出す。右手は濡れた髪をタオルで拭いている最中だったので、左手だけでプルタブを上げる。普段から仕事の合間によく選ぶのは缶コーヒーであったし、常に補助監督への連絡や任務完了の報告などとそれらを片手間にしながら開けることが多かったせいもあって、全ての動作は実に手慣れたものだった。
 そしてふと思い出す。

 女の子はそういうのしない方がいい、と彼から嗜めるように言われた、とある初夏の日を。
 男女差別だなんてナンセンスなことをしてくれるなと言わんばかりに鼻で笑えば、彼も笑いながら「今度からは私が開けてあげるよ」と当時お気に入りだったミルクティーの缶を私の手中から颯爽と攫っていった。勿論、すぐに口を開けて返してくれたわけだが、謝礼と言わんばかりに最初の一口は奪われた。

 そんな過去の記憶に浸れば、胸の中がじわりと粘着質な湿度をあげる気がして、手にした缶の三分の一程の冷たい液体を一気に喉に流しこんだ。

「ーーッあ゛ぁ、生きててよかった……」

 いつからだろう、こんなにもビールを美味しいと思うようになったのは。
 いつからだろう、あのミルクティーを選ばなくなったのは。

 リビングへと移動すると、秋の始まりに購入してから殆ど腰掛けていなかったソファーに全身を沈める。髪も乾かしていないし、スキンケアだってまだ十分ではない。一度身体を横たえたらそれで最後だと思っていたのに、蓄積された疲労に逆らえなかった。動かせたのは残りのビールを飲むために傾ける左腕だけ。だめだ、このまま眠ってしまいたい。しかし、いくら値の張る上質なソファーと言えど、ベッドで摂る睡眠にはきっと勝らないことも分かっている。
 頭の中では自分にたっぷり甘い顔をする私と、一切を許さんとばかりに睨む私がせめぎ合っていた。クソぉ、と誰にでもなくひとりごちた言葉がリビングに響いて消える。
 そしてまた一口。

 静まり返った室内。近所の猫がごみを漁るような音がベランダのガラス越しに薄っすらと聞こえてくる。突如、不器用ながらにもそれと調和しようとせんばかりに着信音が鳴り響いた。

 流石に今日はもう動けない祓えない。ローテーブルに乗せたスマートフォンのディスプレイを盗み見れば、それは担当の補助監督のモノではなく学生時代からつつがなく友人関係を築いており、今となっては同僚にも当たる五条悟の名を映して光っていた。
 珍しいこともあるものだと、僅かに上体を捩って缶ビールと入れ替えにスマートフォンを手に収める。時刻は深夜の一時を少し過ぎたあたり。画面を数度タップして呼び出しに応えることにした。

「はぁい、もしもし」
「あぁ、僕。悪いね……起きてた?」
「ん。どうかした?バックアップ?」

 現代最強を謳われる五条悟というその男にそんなものが必要ないのは分かっていた。それでも、こんな時間に連絡をよこしてきた意図が分からず、咄嗟に心当たりとして浮かぶのは互いの仕事のことだけ。えっと、と珍しくも歯切れ悪く口籠った五条に思わず笑ってしまう。どうかしたのだろうかと「五条、今どこ?」と問えば意外な言葉が帰ってきた。

「んとね、君の……家の前だったりしてー」

 五条は昔から人を振り回すのが得意だ。突拍子もないことを言いだしたり、後輩に無茶を強いたりと学生の頃から大人になった今でもそれはあまり大差がない。だから別にいきなり家に来ようが、付き合いが長くて五条の行動のアレコレにすっかり慣れた私としてはなんら驚きもしないのだが、今日は何かがいつもと違う気がした。
 鍵は開いてるから入って来なよ。とスピーカー越しの五条の様子を探るように呟けば、返事もなしに玄関の扉が開く音がした。すぐ後にはガチャリと真面目な施錠音もした。本当に家の前だったのか。通話をオフにして、玄関へと繋がる扉を見つめる。
 それが静かに開くなり「あのさ」と険しい顔をして入ってきた五条は、ジャケットを片手に浅くため息をついた。
 アイマスクを首元にずらして髪をほぐす様子は、さしていつもと変わらないようにも見える。

「不用心。仮にも女の子でしょ」
「世間一般に通用する強盗だの強姦のの小悪党ごときに、私があっさりやられるとでも?そもそも呪霊に施錠って意味ないじゃん」
「まぁ、それもそうか」

 とりあえず、お疲れ。任務に出かけるときと同じ格好の五条に一応労いの言葉をかける。そして、三人がけのソファーから足を下ろして座り直し、腰掛けるスペースを作ってやった。あれだけ重かった身体が、少し楽になったような気がしたのは、多分疲労よりも目の前の五条に注意が逸れたからだろう。

「座れば?」
「……それ、酒?」

 私よりも幾分長い足を持て余しながらソファーに深く腰を降ろした五条は、ローテーブルの上に乗った缶ビールを顎で指す。そうだけど、と言い終えないうちにはそれを手にしていた。
 待って、嘘でしょ。五条の手の内で傾いた缶。幾らか開けられた唇の間に吸い込まれていく液体。首に掛かったアイマスクの隙間から嚥下に合わせてゆっくりと動く喉仏が無駄に色っぽく見えた。

「え、ちょ……五条」
「……クソ、にっが。うぇ゛ー」
「いや、ビールだし。当たり前」

 てか体、大丈夫な訳。尋ねながらその手中に未だ収まる缶を見つめる。五条は下戸だ。学生時代に硝子たちと面白半分で飲ませたことがあったが、アルコール度数がほんの数パーセントのチューハイを二口飲んで、瞬く間に気分が悪いと顔色を青くしたことがある程には酒に弱い。その後、克服した……というか、慣れたという話も耳にしていないのだが。

「まぁ呪術高専あんときと違ってココ以外もオートで半転回してるからね。害のあるモノは内外問わず弾くか無かったことにしてるってわけ」
「なるほど。便利なこって」

 相変わらず、都合の良い術式とそれを使いこなすセンスには脱帽する。六眼があると言えど、実際五条程の力を手にすれば持て余す人間の方が多そうだ。
 そんな男をずっと近くで見ていた私が、後進指導でよく伝えることがある。それは、少しでも平穏な気持ちで呪術師を長く続けて行きたいのなら、五条悟という人間を同じ秤に乗せない、ということ。その強さに惹かれ、憧れるのは勝手だが、実際はあまりオススメはしない。五条の強さは唯一無二で誰も真似なんてできない。羨望も、尊敬も、努力もどれだけ投じたところで報われることはない。だって、たった一人その隣に立つことが許されていた彼ですら、今はもうそこにいないのだから。

 押し付けるように残りの缶ビールを寄越した五条は、大きなため息と共に上体を此方へと倒した。
 ちょっと疲れた。と、囁くように溢して瞼を閉じる。さらりと重力に従って髪が流れ、ほんのりと赤く染まった頬と耳朶が正常な色を戻していく。やはり軽く酔ったのだろう。そして五条自身の言うように、すぐさま反転術式が稼働した。数秒後にはいつも通りの横顔が眼下にある。
 自然と膝枕をするような形になっており、ずっしりと太腿にかかる体重。高専時代から決して仲は悪くはなかったが、こんな風に戯れ合うような関係でもなかった。そういうのはどちらかといえばーー

 脳裏を過った懐かしい笑顔と、目の前にいる男の思うところが分からずにぼんやりとしていた所で膝の上の重みが無くなった。そして、濡れたままの後頭部に大きな掌が掛かる。穏やかに接する鼻頭の先、僅かに開かれていたガラス細工の様な瞳と見つめ合う。
 ほんの数秒間、触れあった唇の温度がやけに低かったことだけが現実としてこの身に残った。

「ーーッ……な……んで、」


 薄っすらと膜を張るように、未だ白藍の眸子がこちらを見ていた。情けなく下がった眉尻に、何も言えなくなる。五条のこんな顔……あの日、あの時以来見ていない。彼ーー夏油傑が、私達から離れていったあの日以来。

「                」

 そこからの記憶は、あまりにも不鮮明だ。だから五条がゆっくりと口にしたであろう言葉も、私はよく覚えていない。
 けれど、その後再び縋るように重なり合った唇にどうしようもなく安心して、互いの心に穿たれたままだったその穴を埋めるように……寝室の柔らかいベッドの中で一晩中慰めあったのだと思う。



▽▽▽



 朝。意識が覚醒すると目に馴染んだ男の端正な寝顔がほぼゼロ距離にあった。一体何を食べたらこうなるのかと思わざるを得ないほどにキメが細やかに整った肌。長い睫毛が影を落とす瞼。まるで精巧に造られた人形のようにバランスよく配置された鼻と口。見慣れていたと言えば確かにそうだが、この距離でこんなにもマジマジと見つめることは正直なかった。
 んん、と薄い唇から漏れる低い吐息に心臓が跳ねる。身体の中に残る甘い痺れのような熱が、引き戻されないように息を詰めた。バカをして笑ったり、それがバレて怒られたり、時には意見が合わなくて舌戦を繰り広げたり……耳によく馴染んでいたはずの軽快なその声は、もうすっかり男の"それ"だった。

「あの頃は、楽しかったよね……」

 五条がどんな夢を見ているかは知らない。けれど、辛うじて思い起こせる、昨夜の痛々しい表情よりもずっと穏やかであるその寝顔には、図らずも笑みが溢れてしまう。傑と過ごしたなんてことない日々の記憶は、脆弱なところなど一切人に見せることがない五条の持つ、唯一の弱点だったようにお思う。
 そしてそれは、私にも言えること。

「また……笑いあえたらいいのに」

 瞳の奥からジンジンと熱が込み上げてくる。ダメだ、泣くな。言い聞かせても、視界の先の五条の姿がどんどん霞んでいく。それと同時にゆっくりと、瞼が開いて美し過ぎるその双眸がコチラを捉えた。
 優しく腰に回されていた手がそこを離れてやんわりと私の瞼を撫でる。重力に逆らえずに滴る涙を、硬い指先が丁寧に拭ってくれた。

『……ごめん。泣かせたかった訳じゃないんだ』

 頭の中で繰り返される傑の言葉。高専への入学当初から密やかに想い続け、ようやく心が通じたことでが嬉しすぎて泣いてしまった私に、そう言いながら困ったように笑った彼が、呪詛師として道を違えてからもう何年も会っていない。
 何処で何をしているのか、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。それにもう私のことだって……覚えていないのかもしれない。

「会ったんだ……傑に」

 ぽつりとそう溢した五条の目を見つめる。
 私のこと、何か言ってた?そんなふうに聞けるほど、私は可愛い女ではなかった。そっか、と辛うじて出た声はまるで溢れる涙のように小さかった。何も言わずに私の前からいなくなった傑の背中は、今でもこの瞼の裏側にこびりついている。ただいま、と優しい声で帰ってきてくれる日を何度夢見たか。現実は、そう甘くないと分かっていたのに。

「次に会うとき、僕は……
 今度こそ傑を殺さなくちゃならない」

 まるで小さな子供に説き伏せるように、自分自身にすら言い聞かせるように、五条はゆっくりと時間をかけて言葉を紡ぐ。その間も、私の瞳から溢れる涙を優しく、優しく払ってくれる。
 ごめんね。その選択を強いられる五条の方が何倍も辛いはずなのに。もう色々な気持ちが言葉にならなくて、頬を優しく包んでくれる大きな手に、自分のものを重ねるだけで精一杯だった。

「あのさ……僕のこと恨んだっていい、呪ったっていいッ……けど、君には……生きててほしい」

 あの芳しくてけれどもどこか青臭い日々が堪らなく恋しい。もう二度と戻らないと分かっていても、ただどうしようもない程に、私達は傑と過ごした時間が宝物だった。そして、それは今でもずっと。

「五条……大丈夫だから。それは絶対しない」

 何を言っても、気休めにしかならないかもしれない。実際、口約束なんて、その場限りの慰めだと思っている。私があの日、傑にそうされたように。

『また明日』

 いつもと変わらぬ笑みを浮かべて手を振る傑を見たのが、彼との最後の記憶だった。

「ねぇ、私はそんなに弱くない。それは五条だってよく知ってる。私、諦め悪かったし」
「だからずっと言えなかった」

 いつしか涙は止まっていた。安心したように握ったままだった手に温もりが広がっていく。そっと指と指が絡んで、掌が合わさった。穏やかな春の日の空のように、澄んだ瞳に射抜かれて心臓が大きく脈打った。やんわりと繋いだ手を引かれて、五条の唇が薬指に優しく触れた。

「僕だって、好きだったさ。
 もちろん今も、ずっと」

 思いもよらぬ告白に薄く開いた口から出る言葉はなかった。まさか、そんな。信じられないと、ただ瞬きを繰り返す私を見て五条はくしゃりと笑う。そうだよねぇ。微笑み混じりの呟きが静かな朝の訪れに優しく馴染んでいく。
 そして、ぎゅっと音がしそうなくらい、けれど苦しくない程度に抱き締められた体。とくり、とくりと耳元で響く五条の心音。学生時代よりもずっと逞しくなった身体とは裏腹に、ゆったりと頭を撫でる手は驚くほどに優しい。

「まぁそういうことだから。すぐに返事が欲しいとは言わないけど、頭に入れといてよ」

 耳元で甘く囁いたあと、まるで任務のスケジュール報告を完了させたかのように五条は朗らかな笑顔でそう言った。
 終始混乱する頭で、たっぷりと考えてみる。しかしながら。一体全体今までどこにそんな振る舞いがあっただろうか。一番濃密な時間を過ごしたであろう高専時代を思い返してみても、ピンとくる記憶など全くないのだから。

「待って待って、パニックなんだけど」
「ハハ、そりゃ好都合だよ」

 ズルい!と声を張るが、見たことがないくらい嬉しそうに微笑む五条のその顔には、言葉と真逆に力が抜けていく。
 ずっと辛い記憶に蓋をして生きていると思っていた。けどそれは、私だけだった。決して色褪せないあの日々を、五条はきちんと心にしまって大切にしながら前を見て生きてきたのだろう。そして、情けない私をずっと見守ってくれていた。

「ほんと、ズルいよ」

 動き始めた穏やかなこの時間を、私がこれからどうしていきたいのかは正直まだ分からない。けれど、私以上のいろんなものを背負いながら、それでも強く生き続けていた五条が側にいてくれるなら……未だ鮮明に輝き続けるあの日々を大切にして明日の為に眠れるような、そんな気がした。

ロマンスは褪めない 完


高専時代あのときの君、
 傑で頭いっぱいだったからねぇ」

という彼の言葉を引用して、後日硝子に相談すれば「それもあるけど。相手ライバルは夏油だし、神がかりに素直じゃなかったからなあ、あのクズは。まぁそれでも分かりやすかったと思うけど?」と懐かしむように笑っていた。どうやら気付いていなかったのは私だけだったらしい。

あとがき+α

珍しく筆が乗った気がします。尊重し合える三角関係って良いですよね。というかただ、思いの外不器用な五条くんと、遠慮しないのかしてるのか謎な夏油くんと、わりと鈍感な女の子の話。そしてそれを酒の肴にする硝子ちゃん(相談件数は五条が一番多い)がいたらいいなぁ。

20240501



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