まだ名前のつかない痛み



『ごめん。もう少し遅れそう。先に飲んでて』

 そのメールを受け取った時には、既に2杯目のビールを飲み終える寸前だった。すみません、と左手を軽く挙げてホール内で姿勢を正していたウェイターの一人を呼ぶ。ビールをもう一杯、と言おうと……いや、気が変わった。

「白ワインを何か、ボトルで頂けますか?」
「お好みはありますか?」
「……そうだな。南イタリアの、少しフルーティーなものがあれば、予算は特に」

 どうせ会計は目の前に座るであろうその男が支払うのだから、この際値段は気にしない。互いに、呼び出した方が支払うということは、もう随分前から自分たちとっての暗黙のルールになっていた。そして、今回久方ぶりにアクションを起こしたのが彼の方だった。
 それだけの話だ。

「あぁ、連れは飲まないからグラスはひとつで大丈夫です」

 遅れてくることに関しても、仕事柄互いに忙しいのが常だったので、今更責める気も起こらない。だからこそ、彼からの連絡が入るよりも先にしっかりと飲み始めていたわけで……過去に自分が2時間以上待たせたことを考えれば、時にしてまだ30分足らず。ずいぶん可愛いものであるとすら言える。
 流石に、食事は揃わなければ店にも迷惑がかかるだろうとつまみにオリーブだけを注文して、コースの方は止めている。折角の美味い料理を、一人寂しく食べる趣味もない。

 かしこまりました。と下がるウェイターの背中をぼんやり眺めながら、此処へ向かっているであろう男の顔を思い浮かべた。何せ上司から聞かされた話によれば、つい先日までソイツーー五条悟は、どうにもこうにも封印されていたらしい。
 どこのファンタジー映画だよ。


「お疲れサマンサー。いやー色々やっとかなきゃいけないこと多くってさー。結構待ったよね。まじメンゴ!」

 頼んだ白ワインがボトル半分ほどになった頃、五条は顔の前に右手で謝罪のポーズを作りながらも「僕もうお腹ペコペコなんだけどー」としっかり自己主張も忘れずに現れた。
 店の雰囲気を壊さぬようにと珍しく気を遣ったのか、よく見るアイマスクに黒ずくめの怪しさ満載のスタイルではなく、デザイン性のあるサングラスにハイゲージのニットとジャケット、スラックス姿である。あくまでシンプルにまとめられたその格好と五条の口から発せられる言葉遣いとのギャップに思わず笑ってしまう。アンバランスにも程がある。
 案の定、目立つその髪色やモデル顔負けのスタイルの良さ、あと偏差値の高すぎる顔の造りに近くの席に座る客たちは見事にざわついた。その上、ただでさえ予約の取りにくいこのレストランで一番夜景が美しく見えるこの席に、見た目だけなら二百点の男に対峙した相手がじぶんであることで、その場の空気はより一層ざらついたように思う。
 だがしかし、生憎そういう甘ったるい間柄では、断じてない。

「なんだ、もう終活か?」
「僕ってそんなに長生きできないように見えるわけ?まぁ、ぶっちゃけ今回はそれも視野に入っちゃいるんだけどさー」
「マジか。そりゃ"会いたい"なんてたった一言恋人みたいなメール送ってくる訳だな」
「でしょ、ドキッとした?」
「あぁ、かなりときめいたよ」

 手にしたワイングラスを傾けながら五条を見れば、椅子を引きながらニヤニヤと満足げに笑う顔と目が合う。ったく、相変わらず悪い顔しやがって。
 目の前の最強を謳われる男が、不覚にも封印されていた。などと言う半ば信じ難い話を聞かされていたので、まさかの初体験に流石の五条ももう少しセンチメンタルになっているのではないかと思っていたが……こいつ、全然余裕じゃねぇか。

「あ、すみませんコーラひと……え、だめ?じゃあ、何か甘いノンアルコールのカクテルを。シンデレラとか」

 空になった自分のグラスを目ざとく見つけたウェイターがワインを注ぐのを待って、五条は注文を伝える。コース料理にコーラはやめとけ。お前幾つだよ。差し込むように指摘すれば、五条は少し不服そうにではあるが大人しく注文を変更していた。ただ、シンデレラもどうかと思う。

「じゃあ久しぶりの再会に、かんぱーい」
「あ、脱封印おめでとう。生徒に恵まれたな」
「あぁ、やっぱそっちにも情報入ってた?」
「当たり前だろ。そのせいで東京都内が魔都と化したんだ。官邸機能は大阪こっちに飛んでくるし、お偉いさん方は結構面食らってたぜ?」
「僕、そっちから見ても有能株だねぇ」
「まぁ俺は爆笑したけどな」

 運ばれてきた前菜にナイフを入れながら、えーそれ酷くない?と五条は微塵もそう思っていない声色で笑う。
 実際、五条の封印をネタに笑ったのは自分だけだった。シンと静まり返った室内で、頭を抱えるように大きなため息を付いた上司の呆れ顔は今も記憶に新しい。笑いごとではないぞと冷ややかな幾人もの視線に慌てて取り繕ったが時すでに遅し。その後しこたま上司に詰められたのは言うまでもない。

 現在、呪術師界隈と軍、警察のデリケートな関係は、圧倒的な五条の力と我が上司による献策により、日々なんとか形を成していると言っても過言ではない。自分のように、時と場合で呪霊を認識できた上で尚、平然としていられる人間はどちらかと言うと少数だ。極限の状況下、身の危険に晒されて且つ、あの悍ましい化け物に対峙した時、人は大抵まともな精神ではいられなくなる。これは夢だ。そう言い聞かせて目に見える現実をどうにかして否定しようとする。そして過半数の人間はその時点でもう、死んでいる。
 運良く生きながらえたとしても、精神衛生を存分に侵されて普通に生きていくことなど到底困難になった仲間を、それはもう何人も見てきた。あの人を含め、上層部にいる片手で足りるほどの僅かな人間が、そういう意味で呪術師は必要だと提言し、自分のようなごく僅かなイレギュラーが彼らの取り柄をアピールする。反社だの、国家転覆を企む組織だのと宣う奴らも勿論いるが、そういう時は実力行使だ。保身様様な融通の効かない奴らに歩幅を合わせられるほど、あの人は馬鹿でもなければ優しくもない。
 国の均衡を守る、という目的のためならば手段も選ばない上、血も涙もないそんなそんな上司の話を五条にも過去にしたことがあった。おかげで何度死にかけたことかとーー当時も確か肋を何本かと、左肩を骨折していた俺を前に「うちの保身ジジィどもには是非とも見習わせたい精神だよ」と顔を歪めて笑っていた。


「スクナ、だったか?呪いの王は。
 噂程度に聞いたが……勝算は?」

 こちらで掴んでいる情報との擦り合わせと、状況の意見交換を少ししたあと、おそらく今日はそれを理由に彼が自分を呼び出したのではないかと話のタネをふる。チラリと視線を寄越したあと、口の中に残った料理を飲み込んで五条は顔を上げた。そして右手に収まったフォークをゆらゆらと振りながら話し始める。

「そりゃあ勝つ気マンマンだよ。でも、相手が相手だからね。対象は僕だけじゃない。何があってもおかしくない、とも思ってるわけ……色々と、仕込みもしてある」

 空になったボトルを見かねてウェイターが赤ワインを勧めにきたのは丁度、魚料理を俺が食べ終えたその時だった。
 ああ彼、何飲んでも一緒だからテキトーでいいよ。長い脚を優雅に組み替えて、五条は椅子に深く座り直しながら興味なさげに笑う。お前が答えるのかよ、とは思ったが確かに言わんとしていることはわかる。アルコール耐性のない五条と違って、俺のほうは根っからのザルだ。自慢じゃないが、酒に溺れたことは一度もない。
 少し戸惑う素ぶりを見せたウェイターに、料理に合わせてもらえれば、とだけ伝え、ついでに五条のシンデレラのお代わりも注文してやった。

術師界隈そっちのことはよくわからんが、お前が保険をかけるって選択をするぐらいにはヤバい奴ってことか……で?まさか本気で俺に愛を伝えに来たわけじゃないだろ?」

 食べ終えた魚料理の皿を下げにきた別のウェイターがテーブルから下がるのを待って、五条が珍しくもとてもゆっくりとまるで言葉を選ぶように口を開いた。少しだけ、彼の纏う空気が凪ぐ。ああ、なるほど。ここから先は真面目に聞けと言うことらしい。

「あのさ、綾瀬」
「遺言なら受け取らんぞ」

 五条の気持ちを察しながらも、冗談混じりに笑い飛ばす。変な空気にすんじゃねぇよ、と視線で訴えれば、多少不服だったのか僅かに顔を顰めたものの、すぐに喉の奥を鳴らせて笑った五条は氷で薄まった残りのシンデレラを一気に煽った。俺の反応にあながち予想もついていたのだろう。

「まぁ、ぶっちゃけキミならそー言うと思ってたから、そっちは違うヤツに託したよ」
「じゃあなんだ。援護でもするか?」

 それ、流石にキミでも死ぬよ?肩をすくめて見せる五条に「つか、そもそも相手にされねぇだろ」と伝えれば、それもそっか。とあっさりと認められる。ちょっとは否定しろよ、と思いはしたが……たった一度だけ、五条自身の戦闘を初めてこの目で見たとき、あまりの規格違いに思わず呼吸すら忘れていた過去の自分を思い出した。人であるようで人ではない。それが此方にとっての呪術師の認識だ。そして、コイツはその呪術師の中でも圧倒的だ。格が違いすぎる。同じ生き物という気がしなくなる。
 こうして一緒に飯を食って、話して、笑ってはいるが……正直、出会ったその頃から見えている世界は少しも重なっていなかっただろう。お互いにそれを理解していながらも気付けばなんとなく、連んでいた。いや、その距離感がむしろ心地よかったのかもしれない。

「……飯、食いたかったんだ。一緒に」

 少しだけ伏せられた瞳を、長い睫毛の隙間に見つめる。基本的には此方の目を見て話す五条が、あからさまに視線を外したり、俯き加減に喋るのは、照れ臭い気持ちを隠す時のコイツのクセだった。全く。たまにこうやってシオらしくなるのが、唯一可愛げのあるところだと思う。デカい図体と普段からの言動には到底似合わぬ殊勝なその様に思わず笑みが溢れる。まるでガキのソレだ。
 笑ってくれるな、と言わんばかりに五条の瞼が持ち上がり、視線がぶつかる。だが、最近は特にーーこういう時の五条は決まって、俺の後ろにいる俺ではない誰かを見ている気がしていた。どこか懐かしむようなそんな視線が、俺を通り越して真っ直ぐに向けられる、そんな誰かがいつもそこにいる。
 そして、おそらく……コイツ自身はそれに気付いていない。

「そういうのやめとけ。
 変なフラグが立つぞ、縁起でもねぇよ」

 正直、俺はその誰かがコイツにとっての何者なのか、知ろうと思ったことはないし、ましてや気にしたこともない。ただ、コイツが珍しくも偲ぶように優しく、それでいてとても寂しそうな眸を寄越すから、いつだってその青い眼をそんな誰かの代わりに見つめ返すだけだった。
 苦しそうに笑うその姿が、少しだけ気の毒だったから。

「飯くらい、いつでも付き合ってやるよ」

 グラスの残りを一気に呷れば喉を通り抜ける赤ワインに珍しくも微かな熱を感じる。あぁ、今日は少し酔いそうだなと顔を向けた先の五条の瞳が、少し嬉しそうな色をしていた。

 そして。それがーー
 俺の見た五条の最期の笑顔になった。

俺を通してお前が見ていた誰かには会えただろうか

 おいおい……マジかよ。
 まるで特撮映画のように現実味のない様子が、本部のスクリーンに投映されていた。周囲で同じようにそれを眺めていた幾人が息を呑む。

『これは、その……五条悟の負けということですか』
『流石に死んでるやろ』
『いやでも、あの五条悟ですよ?』
『アホか、身体真っ二つやぞ。これで生きとったらそれこそバケモンや』

「あーあ、飯……行けなくなっちまったなぁ」

 ごちた言葉は思いの外、掠れていた。


あとがき+α
夏油くんが離れていって、高専も出てしばらくしてから綾瀬と知り合った五条くん。呪術師を認識している公務員の方は死ぬほど失礼な態度か、すごい距離感で丁寧かのどちらか(勝手な高屋イメージ)であって、綾瀬は飄々としてるタイプだから「うわ、五条悟めっちゃ爽やかじゃん。最強とか言われてるからてっきりゴリマッチョ想像してたわ」くらいの感じで話しかけてきて、五条くんも悪い気しなくて気付いたら仲良しみたいな間柄。
ちなみに綾瀬は小柄ですが、バッキバキに身体鍛えてるタイプの武闘派です。術式ナシなら五条くんと互角かそれ以上で、射撃の腕がピカイチなんだけど大小問わず犬が苦手な可愛い男です(恵の玉犬達が出て時は物凄い距離を取ってた過去あり)。


20240118

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