愛という呪いの前で僕らは



 痺れるような指先の感覚。膝、肘、腰、頭、喉。よもや一体どこが傷んで、どこが傷まないのかさえも曖昧だった。体内に行き渡る酸素がとても薄い。それ故に、苦しい。苦しい。くるしい、いったい、なにが?なぜ?どうして?
 わずか、数秒足らず、意識が飛んだ。
 たった幾秒間の記憶の擦り合わせすらできないなんて。

「あーー、……ぶっ倒れたって。
 いやぁ、マジだったんだ」

 玄関の扉の戸と寝室の扉とが開いた音もしなければ、枕元にぬらりと立ったこの男ーー五条がそう言葉を紡ぐまで、その気配にも全くもって気が付かなかった。当たり前か、と浅く呼吸を繰り返す。今の私に必要なのは酸素だ、酸素。五条のサングラスの奥で愉快そうに丸められた瞳とわざわざ焦点をあわせるのも億劫だ。
 ボロボロすぎ、ウケるんだけど。愉快そうに上がった口角に腹が立つが、罵る言葉すら思い浮かばなかった。クソ。人の気も知らないで……違う。そんなことはもうどうでもいい。今はただ、グラグラとわたしの脳内のみで起こるこの大地震を、早くどうにかしなければーー

「で?なんか食えんの、粥とかゼリーとか」
 生憎、酸素以外の何物もこの口に入る余地はないのだと、僅かに頭を横に振る。実際、そうできていたのかは謎だった。そういえば、昨夜耐えきれずにベッドに倒れ込んでから水分すらまともに摂っていない。どうにも調子が悪いと気付いたのが3日ほど前。手早く任務を片付けて、帰路に着いたは良いが身体中に……まるで呪霊でも纏わりついているのではと錯覚するような気怠さがあった。生憎、視認できるようなモノは憑いておらず、ただただ健康状態が良くないのだと昨日の昼間辺りに硝子を頼れば「とりあえず寝ときなよー様子見に行くから」とスマートフォンのスピーカー越しの声が珍しいこともあるもんだ、と少し笑っていたような気はした。

「…こっちは硝子に何か食わせて薬ぶち込んどけって言われてんだけど?」

 そして、彼女が楽しそうだった意味がここで分かった。贄となってしまったであろう彼にはまぁ、申し訳ないが心底面倒くさそうな声が頭に響いて痛い。直後、喉の奥を誰かが引っ掻いたような気がして大きく咳き込む。酸素がうまく吸えなくて視界が霞んだ。
 あぁもう、勘弁してくれ。
 わたしが何をしたっていうんだ。高専からの任務だって極々真面目にこなしているし、たまに会う生徒たちにもーーまぁわたしの生徒ではないのだが、わりと慕われている方だと自負している。その上、昔馴染みのこの男が呪術界に革命を起こそうと何やら画策していることにも見て見ぬふりをし、決して波風立てぬように、平和を目指して過ごす日々。正直な話が、かなりの優等生だろう。

 身体を横向きに倒し背骨を丸めてどうにか咳をこらえ、呼吸をする為の軌道を確保するために口と喉だけをわずかに持ち上げる。肺いっぱいに息を吸い込めば少しくらいは楽になるだろうか。熱を孕んだ瞼のこちら側がチカチカ、くらくらする。
 もういったいぜんたい、なにをどうすればいいのか。

 次の瞬間、何かが背に触れる。まるでそうしなければ壊れてしまうかのように優しく、そして時折戸惑うようにゆったりと、それは上下する。ほんの少し、酸素が脳にたどり着くのが理解できた。五条の大きな掌が、似つかわしくもなく、そっと背中をさすってくれていた。
 が、これは夢か?

 ぶっちゃけ面白半分で来たわけよ。しょーもない細菌ごときになにやられてんのさ。って笑いながら、目の前で君の贔屓にしてる店の高級プリンでも食べてやろうかと思って、しかも期間も数量も限定のちょーうまいヤツね。手に入れるの結構大変だっんだよ?けどさぁ、
 ペラペラと聞きもしないのに喋り出した五条だったが、定期的に背中を撫でる手は本当に、誰か別の人の物なのではないかと錯覚してしまうほどに優しい。呼吸が落ち着いて、少しだけ心に余裕が生まれる。

「これはちょっと……流石に笑えない」

 そう呟くとともに、彼が膝をかけたベッドが軋む。ひんやりと額に触れる指先の温度に少しだけ重い瞼を開いた。視線の先にいつものサングラスはなく、羨むほどにサラサラとした前髪と、その奥でほんの少し不安の色を浮かべた双眸とぶつかる。まさかーー

 多分、気のせいだろう。
 うん、気のせいだ。
 いや、気のせいであってほしい。

「熱は、いつから?」
「……きのぅ……ぐら、ぃ……かな」
「そう。まだ長引きそうだね」

 額に触れていた指先がそっと離れるのと同時に、首筋に冷えたペットボトルか何かだろう、が充てられた。全く、雑なのか、そうじゃないのか……それでも、行き場を失っていた熱の旅先が決まったことは救いだった。あとは、この男がこれ以上余計なことを言わず、黙ってさえいてくれれば。ひとつまみの塩ほども存在を認めない神に祈るが、そんなものは都合が良すぎると、叱られそうだ。



「ちなみに。人にうつせば治るっていうけど、
 ……正直、どう思う?」
「……は?」
 

 ほんの一瞬。おそらく、1秒足らず。
 今、この男が、私に、したことは。

 暖かくて、柔らかな何かがしっとりと触れて離れた、その感覚だけが、研ぎ澄まされたように残る唇。熱を宿した瞳に見つめられて身動きの一切が取れない。頼むから、勘弁してくれ。それだけは、是が非でも、理解したくはない。今まで通り、見て見ぬふりを、気付かぬふりをするのがお互いのためだ。そうでなければ、今までの私が。
 私たちが、壊れてしまう。

「な、んで……」
「したいと思ったから」
「……そんな、みがって」
「身勝手で結構。お前に気を使うの、もうヤメヤメ」

 僅かに怒気を孕んだ声に、身を竦める。瞼が熱い。深く重いため息とは裏腹に、大きな掌が優しく労わるように身体を引いた。上半身だけを起こされて、視線の先には厚い胸板。顔を上げる勇気が出ない。今更、どんな顔をして五条を見たらいいのか分からない。だめ、だって。と絞り出した言葉が震えていた。抱きしめる腕の優しさに、心が押し潰されそうだった。
 それこそ五条とは、物心ついた頃からの腐れ縁だ。幼い頃は圧倒的な力の差のせいで、どこか異質な雰囲気を放つ彼を不気味なもののように思っていたが、呪術師としての生き方に倣ううち、なんら変わりない1人の人間として接することが出来るようになったし、同じく呪術高専に通う頃には適度な交友関係を築いていた。そしてその頃だった。とても美しい少女が彼の許嫁だと言って現れたのは。凛と咲く、一輪の白百合のように儚げで……だが、強い意志を持った青い瞳が印象的な少女。彼女を前に、私は息を呑むのが精一杯だった。と、同時にやはり五条悟という男は、私達のような普通である者とは違うのだと認めざるを得なかった。

「ねぇ……だめ。こんなの、わたし」
「ダメじゃねぇよ。誰を選ぼうが僕の勝手。それでお前を選んで、僕が後悔するとでも?
 ナメてんの?」
「そんなの、わかんないじゃん」
「分かるさ。ずっと、」
「やだ!ききたく、ない……」
「んなもん知ったこっちゃねぇよ」

 頑なに俯けた顔を上げない私に痺れを切らした五条の指が顎に掛かる。中指を軸にグイと持ち上げられれば、いとも簡単に視界が開けた。そして、乱暴な言葉からは想像できないくらい、優しい瞳が此方を見下ろしていたことに驚く。お前だって、そうだろ。唇から囁かれる声が、頭の中で反響する。

「ずっと、好きだった。今も、この先も」

 堪えていた涙が溢れた。ずっと、彼の口から聞きたくないと、聞けばきっと私達は呪われてしまうに決まっているとすら思っていた言葉が、こんなに嬉しいものだとは思いもしなかった。気付けばその立派な首筋に縋り付くように腕を回していた。どこにも行かないで欲しいと思った。枷が外れたように、溢れ出す気持ちの処理の仕方が分からなくて、ただただ声を殺して泣く。

「しわくちゃのジジイとババアになっても、変わらん、絶対。だからそんな泣くなよ」

 呆れたように頭を撫ぜる手が、笑う声が
 抱きしめるこの腕が、身体が、
 涙の膜で朧げに見たその緩んだ顔が、

 私の世界の一部になった。

ただ、側にいる、それだけで幸せだと


「正直ちょーっとビビったんだよね」
「ビビる……?」
「だってさ、今まで見たことないぐらいのレベルで弱ってんだもん。普段任務でも怪我少ない方だし、生理中だって大体ピンピンしてんじゃん?」
「後半なかなかのセクハラ発言だけど」
「それだけずっと、お前のこと見てたってこと」
「いや、普通にキモいわ」
「でもそんなキモい男の腕の中で安心して爆睡してたのだーれだ。ほら、熱も下がったし」
「……まぁ、そうね」
「んじゃま、そろそろプリン食べますか」

あとがき+α

五条家の坊にはそりゃ絶対産まれた頃から許婚とかがいて、五条さんの気持ちに気付きながらも、家柄とか世間体を前に自分じゃ彼を幸せにしてやれないのが分かってて気づいてないフリをしてきた人と、恭しくもそんな彼女の気持ちを察しては漏れ出る気持ちをはぐらかしてたくせに、珍しく弱ってるとこを見てやっぱり限界が来ちゃったから自分らしく強引に行こうと決めた五条さん。


20230911



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