名前のない、

この気持ちに、まだ名前は無い。






「新八さーん」
「おう、名前ちゃん!今日も元気だなー!」
「新八さんこそ、この寒い中筋肉出しまくりですね!」

屯所の前を毎朝歩く彼女は、朝から夕まで茶屋の店先に立つ言わば看板娘。臙脂色の袷を着て、一つに結い上げた髪が彼女が動く度に元気に揺れる。
看板娘になれるだけあって愛想が良い。からからと笑う様は、誰が見ても元気が貰えるよう。

「おう!見ろ!この上腕二頭筋!!」
「もう毎朝見てるんで見飽きましたー」

自慢の腕を差し出すと、ちょうど目の前まで歩いてきた彼女は俺の腕を数回叩いてわざとらしく溜息を吐く。吐いた息は白く形を成す。季節は冬へ向かおうとしている。特に朝晩は冷えるからか、彼女の鼻が僅かに赤い。

「ならこの六つに割れた腹筋を!!」
「えっ」
「おい新八!朝っぱらから何してやがる!!」
合わせに手を掛け、上半身を露わにしようとした所で背後から声が掛けられた。耳馴染みのある声は、左之だ。振り返ると、血相を変えた左之が此方へ駆けてくる所だった。
「おん?名前ちゃんに自慢の腹筋とついでに胸筋をだな」
「馬鹿野郎、傍から見たらお前ただの変質者だぞ!見ろ、名前だって固まってんじゃねぇか」
呆れたように短い眉を下げた左之につられて彼女に目をやれば、確かに茶色い瞳を大きく見開いたまま、顔を真っ赤にして微動だにしない。
「悪いな、名前」
左之が彼女の頭に手を乗せた所で漸く口をぱくぱくさせて動き始めた。見開いたままだった目もぱちぱちと瞬きされている。
「名前ちゃん?」
それでも変な様子のままの彼女の顔を覗き込むように屈むと、驚いた彼女は背を仰け反らせた。
「す、素晴らしい腹筋ですね!」
「だろ!?最近は太腿も…っと、悪い悪い」
左之の垂れた目が鋭くなった所で、それ以上は止めておいた。左之は溜息を吐くと先に道場へ行ってる、とだけ言って去っていく。言葉を発さない彼女と二人、その背中を見送り、見えなくなったところで会話を戻した。
「い、いえ。あ、新八さん。今日はお仕事ですか?」
「いや、非番だぜ?」
頭二つ分程背の小さな彼女が、花を綻ばせるように微笑んだ。柄にもなく、心臓が大きく跳ねる。
「良かった。実は今日から新しい冬のお菓子と、柚饂飩が出るんです。新八さん柚お好きだって言ってたので、良かったら来てくださいね」
いつ話したかも覚えていないような細かな事を、当然のように話すと、彼女は俺の手握って笑って見せた。先ほど変に意識した所為で、顔が熱くなる。
「お、おう。じゃ、じゃあ今日夕餉に左之と平助でも誘って行くぜ」
「お待ちしてますね。あ、それじゃあ私行きますね!新八さん、また後で!」
「おう!」
彼女が背を向けたのを確認すると、すぐに俺も道場へ向かった。名前ちゃんと毎朝話すのが日課になっている為、最近は早起きになってきた。
空は朝の白から段々と青みを帯び始めた。大きく伸びをして道場へ足を向けると、今日も一日頑張ろうと心の底から思える。




この気持ちに、まだ名前はない。





「ねえ左之さん、あれ、気付いてないの本人たちだけだよね。僕いい加減うざったいんだけど」
「まあ、奥手同士だとああなっちまうんだろ。もう少し見守ってやろうぜ」

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