淡い夢

帰りのHRも終り、荷物を纏めた名前は自分より前に席を持つ親友の元へ足を向けた。
「千鶴、帰ろう?」
「えっと、実はこの後用があって…」
振り返った彼女は、桜色のシュシュでまとめた髪をさらり、と流して名前に申し訳無さそうに謝る。先に帰ってて良いよ、という気持ちと、待っていて欲しいな、という淡い期待を胸に、曖昧に言葉を濁した千鶴に、名前は何も気にする様子無く問いかけた。
「時間かかりそう?」
「ううん、30分くらいだと思う」
千鶴が答えると、名前は既に主の帰った千鶴の隣の席に腰掛けて通路に足を出す。一度まとめた荷物の中から携帯と飴を取り出して、ひとつ千鶴に渡すと自分自身もフィルムを解き、飴を口に含んだ。千鶴は、その様子を見惚けながら名前の言葉を待つ。なんて、綺麗なんだろう。
「じゃあ私教室で待ってるね」
千鶴の心情など知る由の無い名前は、口内のいちご味を楽しみながら、千鶴に待っている事を伝えた。千鶴は名前の声にはっと意識を現実に引き戻す。いけない。こんなに見つめていては、不審に思われてしまうかも知れない。そう思い、慌てて視線を荷物に移す。そして、漸く名前の言葉を飲み込んだ彼女は、申し訳なさと嬉しさでないまぜになった不思議な気持ちで名前に向き合う。
「うん、ごめんね。なるべく早く切り上げて戻ってくるね」
「大丈夫だよ。いってらっしゃい」
しかし、そんな千鶴の心情を、やはり名前は知らない。控えめな千鶴。そんなに謝らなくても良いのに、と心の中で親友の愛らしさを微笑ましく思いながら、足早に教室を出た親友の背を見送った。


「平助君、ごめんね、待たせて」
呼び出された先は、放課後殆ど人が通らない旧棟の入り口だった。新棟から旧棟へ向かう通路は真っ直ぐで見通しが良い。すぐに呼び出し主の姿を認めた千鶴は、走って彼の元へ向かった。
「あ、いや、大丈夫。全っ然大丈夫!」
千鶴の声に顔を上げた平助は、既に顔が赤い。何度も大丈夫、と伝え、千鶴の方を見ない。既に緊張が高まりきった彼は、千鶴を見る度心臓が壊れそうな程早く、強く鳴ってしまうのだ。
「それで、話って…?」
平助の様子になんとなく呼び出された内容を察した千鶴だが、自惚れてはいけない、と、その理由を問う。早く、教室で待つ名前の元に戻りたい。今日は、駅前で少し買い物をしようと昨日から話していたのだ。もうすぐ彼女の誕生日が近いから、何が欲しいのか知りたい。ああ、そうだ。それならお揃いで何か買っても良いかもしれない。
目は真っ直ぐに平助を見ているが、皮肉にも気持ちは漫ろに此処にはいない名前の元へ飛び立っていた。しかし、平助がそれに気付く事はなかった。何度も何度も深呼吸した後、ぐっと拳を握り、腹を括る。
「実は、俺、千鶴の事ずっと前から―――」
急に耳に届いた平助の声に慌てて彼を見つめ直す。紡がれた言葉は、千鶴の予想通りだった。告白をしたのは平助なのに、頭の中は、名前の事でいっぱいだった。彼の言葉をかき消すように、頭を、胸を、名前が埋め尽くす。
真っ直ぐに気持ちを向けてくれた平助への感謝と、断りの言葉を、口早に紡ぎ、それ以上彼を見ないよう、頭を下げた。はやくかえりたい。向けられた気持ちが真っ直ぐ素直な分、後ろめたさがある自分の気持ちで、胸が締め付けられる。ああ、どうして私は、名前ちゃんがすきなんだろう。ずくずくと胸が痛むのに、瞼に浮かぶのはいつも優しく笑って千鶴の名を呼ぶ名前の姿だった。
「時間取らせて悪かったな。じゃあ、また明日」
千鶴の悲痛な面持ちに、自分の告白が彼女を苦しめていると察した平助は、当たらずも遠からぬその推測の元、早急に千鶴に別れを告げた。破れた恋は胸に突き刺さり、今にも張り裂けそうだというのに、千鶴と同じように人を想う心を持つ平助には、やはり彼女が悲しい顔をするのは嫌だった。
「うん、明日、ね」
ぎこちない笑みを自分に向けた平助に、おなじようにぎこちない笑顔で応えた千鶴は、走り去る彼の背中を目で追った後、壁に背を凭れた。
「…」
一度大きく息を吐くとずるずるとそのまま座り込み、両手を顔にあてる。
「ごめんね、平助君」
謝罪の言葉は、平助には届かない。真っ直ぐに此方を向いた平助に、千鶴は向き合えなかった。自分の心を、平助に向ける事が出来なかった。あんな状況でも溺れるように名前の事を考えていた自分が、卑しく思える。それなのに、名前を求めて止まない。理性というものが自分の中から無くなってしまうのではないかと、恐ろしくもある。
それでも、この気持ちを止められないのだ。平助がそうしたように、千鶴も数回深呼吸して、気持ちを落ち着かせると、立ち上がり、教室へ足を向けた。

たった30分程度だったというのに、教室にはもう生徒はいなかった。皆部活に行ったり、もしくは既に学校を出ているのか。千鶴の横の席に腰かけたままの名前を、ドアの近くから見つけると、思わず口角が上がってしまう。
「名前、ちゃん…」
教室に入り、彼女に近付くが机に突っ伏したまま此方を向く気配はない。もしかして、と顔を覗き込むと、瞼は落とされていた。
「寝ちゃってる…」
すうすうと寝息を立てる名前は、化粧っ気が無い割に、睫が濃い。普段は活発そうな印象を与えるその瞳が、今は見えず、落とされた瞼から綺麗に並ぶ睫のせいで、今は寧ろあどけなさや無垢さが際立った。
無防備なその様子に思わず心臓が鳴る。そっと右手を名前に伸ばし、指の背でそのやわらかな頬を撫でる。すこし、冷たい。そわり、とその感覚が指に伝わり自分がした事なのに頬に熱が集まった。慌てて手を戻すと、勢い余って自分の席に手が当たってしまい、机がずれて鈍い音がする。
その音に反応して、名前の眉が寄った。
「…千鶴…?」
「ごめんね、お待たせ」
取り繕うように笑ってみせると、さして気にする様子無く名前は手を天井に向けて組み、寝ていたせいで凝った背を伸ばした。
「ううん、寝ちゃっててごめん。帰ろうか」
伸び終り、ふう、とひとつ息を吐く。既にまとめてあった荷物を手にとると、再び千鶴に飴を1つ渡して、名前は席を立った。



平助と話していた為、いつもより帰る時間が遅い。とは言え空はまだ明るく、駅に近付くにつれ同じ学校の生徒の姿もちらほら見られた。二人は、最近駅前にできた新しい雑貨店の話題で盛り上がっていた。キャラクターもののノートがあるだの、可愛いヘアアクセがあるだの。会話が途切れた一瞬。千鶴が、それまでの笑みをすう、と無くし、名前を見る。
「ねえ、名前ちゃん」
「うん?」
千鶴の様子に僅かに不安が胸に過るも、何か真剣に話したいのかもしれない、と、気付かないふりしてなるべく自然に振舞う。千鶴は、つい先ほど平助に呼び出された時のことを頭に浮かべていた。もし、もしも。もしも名前が平助に…男子に呼び出され、同じように告白されたら、それを受けるのだろうか。湧いた疑問は、千鶴の胸を締め付けた。自分以外の、他のひとが名前の隣を歩くというだけで嫌なのに、それが、男子なんて。名前が好く、男子だなんて。
「…千鶴?」
「もし、もし平助君に告白されたら、名前ちゃんどうする?」
「っえ?なに?千鶴告白されたの?」
千鶴は、名前の顔が見られなかった。自分の中の嫉妬が、自分の目から名前に通じてしまうのが、怖かった。こんな気持ちを抱いて名前と話している自分をいやらしい、と、軽蔑されてしまうのが、怖かった。
だのに千鶴の想いなど露ほども知らない名前は、千鶴の言葉に彼女が平助から告白されたことを知ると、その話に興味を持った。勿論、千鶴は話を元に戻す。千鶴にとっては死活問題なのだ。
「そうじゃなくて、もしもの話だよ…!」
「まあ、平助は千鶴しか見てないし、それはないよ」
「そういう話じゃ、ないんだけどなあ…」
それでも、名前が千鶴の言葉に答える事はなかった。名前は、かねてから平助が千鶴に想いを寄せている事を知っていたからだ。故に、千鶴の問いは、千鶴が平助を想うあまり不安になってしたものだと解釈した。…千鶴が好いているのは、名前だというのに。千鶴自身もそれに気付いていた。ここまで鈍いと、流石に凹む。
「じゃあ、どういう話?」
「ううん、なんでもない。ごめんね、変な事言って」
今は、想いを伝えられない。まだ、その時ではない。
「本当、変な千鶴」
くしゃりと笑った名前に、曖昧に笑みを返す。千鶴のこころは、張り裂けそうだった。どんなに想っても、どんなに追いかけても、彼女は私と向き合おうとはしない。彼女の瞳に映る千鶴は、いつだって「仲の良い友達」なのだ。
もう一度、笑う名前を見る。穏やかな笑みを浮かべて、千鶴の反応を待つ彼女。こんなに胸は痛むのに、名前のこの笑顔が、好きだ。なにもかも、全て投げだしてしまいたくなる程に、彼女が、好きだ。
「ほら、行こう?…千鶴?」
「うん」
差し出された手を取れたら、どんなに良いのだろうか。千鶴には、それはできなかった。手を取ってしまったら、繋がったそこから、想いが伝わってしまいそうで。
千鶴より少し背の高い名前の隣を、歩く。いつか、手を繋いで歩けることを夢見て。


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