父になる

落ち着かない一日を過ごした。女共は慌ただしく湯と手拭を用意しては部屋に運び、汚れたものを入れ替わりに出す。偶に漏れる名前の呻きとも喘ぎとも取れぬ声が時間を追うごとに大きくなり、最後は聞いている側が辛くなるほどの声を発していた。お産婆達が名前に呼吸やら何やらを手ほどきをして。
名前が最初に違和感を覚えたのは明け方頃だったというのに、既に日は沈み、この屋敷以外は既に静まり返っていた。自室でその時を待つが、落ち着かない。傍に天霧が控えているものの、奴もまた落ち着かぬのだろう。いつもの表情よりほんの僅かに頬が固い。

「風間様」
「…なんだ」
「大丈夫です。女は、あの痛みに耐えられるように創られています」
「くだらん」

何を当たり前のことを。しかし、天霧の言葉に僅かに安堵を覚える自分もいる。男鬼とは違い殆ど争いの場に出る事の無い女鬼。名前は元々の家格が高かった故、他の女鬼たち程外にも出ていない。夜ごと彼女の線の細さに驚きと一種の恐ろしさを覚えた。いつか名前を壊してしまうのではないか、と。

遠くに、動物のような声がするのを耳が拾った。そしてすぐにばたばたと我が屋敷にしては煩い足音が部屋に近付いて来る。普段であれば怒号を飛ばすが、今回は許そう。それよりも早く、待ち望んでいる知らせを。
「風間様…!」
勢い良く障子が開け放たれた。息を切らしているのは、先程名前と共に部屋に入った産婆のうちの一人。
「おめでとうございます。珠のように愛らしい姫の誕生です」
「そうか」
渇いた土に水が染みわたるように、大きな安堵が胸に広がる。ゆっくりと立ち上がり産婆の元へ行けば、産婆名前と新たな鬼の姫の待つ部屋へと俺を導いた。

「入るぞ」
ゆっくりと障子を開けると、既に血の類は拭われ、布団に名前と共に件の姫が横たえられていた。部屋はあたたかく、生臭い。
「千景様、」
「起きずとも良い。傷を治す事に専念しろ」
「心遣い、痛み入ります」
明け方から痛みに耐えていたせいか、それとも出産時の出血のせいか、名前の顔は青白い。しかし、名前は興奮しているのか、瞳を輝かせ、隣で眠る新たな鬼の姫に寄り添っていた。産婆や侍女は、部屋から下がる。
「ふふ、まだ髪は生えていませんが、角は千景さんと同じニ本角。きっと気高い女鬼になりますね」
二人きりの時のみ、名前は俺の呼び名を変える。彼女の額を撫でてやってからもう一度子を見る。正直、名前にあれほどの苦しみを与えるなど許せぬと思っていた。しかし、不思議と今はそのような感情は無く、既に眠り始めた彼女を見て、そっと角を撫でた。
「千景さん、この子を産ませて頂き、ありがとうございます」
「いや、」
これは、俺が望んだ事だ。この里の頭領として、そして、名前の夫として。政略結婚とは言え、聡明であるにもかかわらず、花のように愛らしく笑う名前に惹かれているのも事実。初めて、心から子が欲しいと思った。名前の懐妊が分かってからというもの、悪阻に苦しむ彼女を見ては、自らの考えがいかに浅はかだったかを知り、腹が大きくなるにつれこむら返りや浮腫みで眠り辛くなったにも関わらずやわらかく笑う名前に母の温かさを知り、そして何刻にも及ぶ痛みに耐えながらこうして生まれてきた命を愛おし気に撫でる名前に、愛の深さを知った。
「どうか、抱いてやってください」
「…、」
抱けと言われても、どうしたら良いのか。子供を…しかも赤子を抱いた事がない為、どう触れて良いのかも分からない。俺の様子に目をまるくした後、再び微笑んだ名前は、口元に弧を描いた。
「首の下に手を入れ、頭を支え、もう一方の手で背から尻までを支えてあげてください」
見透かしたように、それでいて、優しい名前の言葉に嫌味は無かった。言われた通り、そっと首の下に手を入れ、脚の間から手を差し込み、背から尻を支える。そのまま右腕に頭を乗せて固定すると、安定した。…驚く程軽い。そして、脆い。骨も未発達だからか、それとも筋肉が弱いからなのか、兎に角柔らかい。感触ではなく、作りが、だ。このまま立ち上がり手を離せば死んでしまいそうなほど、腕の中の子は、脆かった。
抱いた感触の所為か、赤子が口を開く。瞼の隙間から見えた瞳はまだ黄金色に輝いていた。しかしそれもすぐに瞼によって見えなくなってしまう。沐浴で拭いきれなかったのか、指に白いものがついている。まるで雀の足のように細い指にそっと指を這わせると、強く握られた。
「父上ですよ、」
その様子を見ていた名前が、赤子に声を掛ける。父上。その言葉が妙に重く心に広がって行った。

父上。そうか。俺は…。

指を無理には外さず、そのままにして名前を見る。外傷は既に大方癒えているとは言え、骨の治癒には時間がかかる。痛い筈だ。それなのに、笑っている。俺と、赤子を見て。
「名前」
「はい、千景さん」
「よく、頑張ったな」
「頑張ったのはこの子ですよ。こんな小さな体で、ひとりで頑張ってきたんですから。…私は、お腹の中でこの子を育て、産み落としただけです」
花のように笑う名前の顔には、いつの間にか慈しみが含まれるようになった。それは、この子が生まれる前、腹にいた頃からだ。腹に子がいる時から、名前は母親だった。
「お前も、よく頑張った。…良い名を与えよう」
俺は、今ようやく父親になったのだろう。指を掴むこの小さな手を初めて守りたいと思った。あるべきものが、そこに落ち着くように、ゆっくりと父親としての俺が、生まれた。




俺は今日、初めて父になった。

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