口づけは手首へ

私の左手首を握る力が強すぎて、ぎりぎりと痛む。先を歩く千景の顔はいつになく険しくて、そんな痛みを訴える事すらできない。見知ったオートロックのマンションへ足を踏み入れるとエレベーターに乗ってそのまま迷いも無く最上階へ連れていかれる。勿論、会話はない。真黒な玄関ドアを開いた千景は押しこむように私を中へ入れると、靴も脱がないままに私の唇を奪った。









今日は、千景とのデート、だった。いつもデートコースは千景が決める。行きたい場所があれば予め伝えるけれど、毎回そういう場所がある訳ではない為、迎えにくる彼の車に乗り、その日のデートを始めるのだ。
今朝も、いつもと同じように10時に迎えに来た千景の車に乗り込んだ。いつもなら市街地へ向かうのに、今日は珍しく西へ車を走らせる。段々とビルが減り、家屋が減り、30分も車を走らせると景色の殆どはやわらかな緑色になっていった。一言窓を開ける許可を貰ってから、ドアについているボタンを押して窓を開ければ、春特有のふわりとした匂いを孕んで心地よい風が車内を駆けた。
「気持ち良いね」
気付けば運転席側の窓も空いており、春の風は千景の髪を遊ばせていた。我が彼氏ながら、車のCMのように、恰好良い。急に恥ずかしくなってしまった私は再び窓の外へ視線をズラした。青い風景は土手の向こうに浅葱色の空を背負っている。
「もう着くぞ」
「うん」
千景の声に、窓の外から視線を前方へ移すと、薄らと霞みがかったような桜並木道が見える。高速で走っていた車が少しゆっくりになった。桜並木の下には手を繋いだ夫婦や小さな子供を連れた親子が頭上の春を見て微笑んでいる。
「うわあ、綺麗…」
普段都会で暮らしているから余計にこの景色に心を打たれた。ひらりひらりと風に舞う花弁も、揺れる花たちも、その全てが不思議と懐かしくて、愛しい。
ふと、この景色が記憶の中の景色と重なった。あれは、確かまだ学生の頃だ。当時の恋人と電車に乗って桜を見に来たのだと、思う。
ぼんやりとその時の事を思い出しているうちに、車は臨時駐車場へ停められ、促されるままに私は助手席を降りた。バッグを肩にかけると、千景が私の少し先を歩く。
「先週から咲き始めたらしい。丁度今週が見頃だそうだ」
「そういえば天気予報で言ってたかも。最近あんまり外に出てなかったから、桜を見に来るなんて考えてなかった…」
「仕事熱心なのは良いが、日本人らしい風情と言うものを大切にしても良いだろう」
呆れられたかと千景を見上げても私に向けられた視線は優しくて、ああ、愛されてるな、なんて能天気な事が頭に浮かんだ。

二人で、桜並木道をゆったりと歩く。時折目の前で踊る花びらを捕まえようとするけれど、風を受けて舞う花びらを私は結局捕まえられなかった。仕方なしに足元に重なるように散った花びらを数枚手に取ると鞄にしまっていた本に挟んだ。
「帰ったら押し花にするの。今日の思い出」
私の行動を見ていた千景に言うと彼は再び歩き始める。
「染井吉野は、通常の植物のように種子では増えぬらしい」
「え?じゃあどうやってこんなに沢山…」
「接ぎ木をするなどして人の手でここまで増やされた」
「…なんだか、不思議だね。日本の春と言えば桜なのに、それを作ったのが日本人自身だなんて」
「桜を、美しいと思ったから増やしたのだろう。審美眼が備わっていたという事だ」
「色彩感覚に鋭いって言うもんね」
会話に、間が出来た。それぞれに頭上に広がる桜たちを楽しむ。
「そういえば、まだ学生だった頃、当時付き合ってた彼氏と一緒にここに来た事あるんだ。ついさっきまで忘れてたんだけど、急に思い出した。すごいね。忘れてたことを思い出させるって。…千景?」
一緒に歩いていた筈なのに、千景は立ち止まってしまった。気になる花を見つけたのかと同じように足を止めるが、その視線は鋭く私を貫く。
「千景…?」
私の呼び声に千景は応じない。綺麗な顔は、表情を無くすだけで恐ろしい程冷たくなる。
「ちか、げ…っ」
二度目の呼び声が彼の名を紡ぎ終える前に、千景は歩き始める。しかし、先程までの桜たちを楽しむような速さではない。残りの桜を楽しむ余裕も無く、私は置いていかれないよう彼を追いかけるしか出来ない。ほぼ駆け足に近い形で千景の後を追って、彼の名を呼んでも、千景は応じてくれない。そのまま土手の下を歩き駐車場まで戻ると、私がシートベルトを付けるのを待たないまま車は急発進した。
つい数十分前にはわくわくとしながら見た景色を、焦りと不安の入り混じった気持ちで、見る。車は家の方へ戻っているようだ。今の彼にそれを問うたところで答えが返って来ない事は目に見えている。下手に刺激しない方が良いだろう。私は口を引き結んで、高速で走る車に身を任せた。





「っん、ち、…かげっ」
キスは、深い。千景の胸を押しても、彼は動じない。千景の右手は私の背後の壁に着かれ、左手が私の顎を掴む。割り入れられた彼の舌は探るように私の舌を捉える、隙間なく唇を合わせられたまま私の舌を彼の口内へ導く。やわらかであたたかな舌の感覚に、教え込まれた身体は素直に反応して、熱くなっていった。
「は、あ…」
荒々しくも蕩けるようなキスと酸欠とで頭がぼんやりし始めると、漸く唇が離された。自然に閉じていた瞼を持ち上げると、すぐ目の前に紅色が、ある。
「千景…?」
「過去に興味が無い訳ではない」
千景が声を発する度、僅かな吐息が、私の唇に触れる。
「だが、過去の男に関する話を聞くのは、不快だ」
す、と紅が細められたかと思うと、再び唇に、熱。私の身体は蕩けるようにその口付けを受け入れ、少しずつ彼に応える。攫われるように撫でられた舌を、同じように撫で返す。いつの間にか腰に添えられた腕を撫でてから、彼の首に私の腕を回した。
「っ、はあ…ごめんね、千景」
「否…」
再び唇の離れたところで彼に謝ると、極まりが悪そうに千景は私から視線を逸らした。
「でも、不謹慎だけど、妬いてくれたの、嬉しいかも」
「何を…」
「だって、それだけ愛されてるって事でしょ?」
愛されてる自覚は十二分にあった。けれど、いつも私をリードするのは千景で。私で釣り合っているのか、なんて、言ってしまったらきっと千景は怒るだろうから、言えなかったが、ずっと心にあった疑問だ。私ばかり好きなんじゃないか、って。
「愛され足りぬと…?」
千景は先程まで掴んでいた私の左手を取ると、赤く跡になっている手首にそっと舌を這わせてから唇を寄せた。ぞわり、と、一気に身体が熱くなる。
「そ、じゃない、けど…」
私の反応に満足したかのように、彼は少し薄いその唇で綺麗に弧を描く。そして、掴んだ腕を少し引っ張った。予想していなかった行動にバランスを崩した私は、千景に抱き留められる形で彼の腕の中に納まった。



「こんなに、お前を求めていると云うのに」


腰に回された腕に力が込められたのを感じて、私は再び瞼を落とした。間もなく口付けられるのを予感して。

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