恋と依存の間で

「苗字、この間の資料まだか?」
「申し訳ありません。あと1日ください」

私らしくない。

仕事でミスなんてしない。ミスしたとしてもすぐに自分で気付いてリミットまでにフォローする。
沢山の後輩たちが「先輩」って慕ってくれて、上司からも信頼されていて。絶対に100点以外取らない、中堅社員。チームをまとめて、フォローして。女性社員の憧れで、頼れる先輩、なのに。
それなのに、今のこの状況は、何。メールの送信ミスから始まり、資料作成が間に合わない、スケジューリングミスで人手が足らない、それなのに頭が働かない。あからさまに周りの足を引っ張っている。

「苗字、」
「はい」
「1時間くらい休憩してこい。このまま仕事したって何も改善しねぇだろ」
「…はい」

心底心配してくれているのだろう。赤い髪の上司が、私の頭を撫でた。甘やかさないでよ。怒鳴って、もっとちゃんとやれって、叱ってよ。
事務所から出ようとする視界の端に、こちらを見つめる視線がある。けれどそれは気付かないふり。私がこんなになったのは、あんたの所為じゃない。あんたに、フられたからじゃない。私の頭の中にいるのは―…。




外に出ると、天気予報で連日言われているような、うだるような暑さはなかった。風は北から吹いていて、心なしか涼しい。日差しは確かにじりじりと肌を焼くようだけど、日陰に入ってしまえばそれも気にならない。
事務所の外に自販機がある。赤い色をした大きな箱は、今流行りのアジア系のドリンクを推していた。だけど、いつも通り私は微糖のコーヒーを選ぶ。

匡と寝たその日から、彼とは連絡を取っていない。あの夜だけの関係なのだから、一回セックスしたからって頻繁に連絡するのは気が引ける。
寧ろ、慰めの為とは言え、セックスせざるを得ない環境を作ってしまった事に少なからず申し訳なさを感じている。
匡は良くも悪くも友達なのだ。飲み友達。それ以上でも、それ以下でもない。飲みたくなったら会うし、特にそれが無ければ連絡をすることはない。匡も恐らく同じなのだろう。たまに来る連絡はいつだって「飲み行かねえか」の一言だけ。
缶コーヒーが汗をかきはじめた。小さな水滴がいくつも側面について、流れていく。仄かに甘いそれを口に含んで、小さく息を吐いた。
それなのに、頭の中は匡の事でいっぱいだ。あるときは、あの夜の事を鮮明に思い出し、ある時は彼自身の事を考えている。これじゃあ、まるで恋だ。一回セックスしただけでこれでは、仮に頻繁に会うようになったらそれこそ私は彼に惚れてしまうのではないかと思う。―それでも、それはいけない恋。否、恋ですら無いのかもしれない。多分これは依存に繋がる。甘やかしてくれる人に寄り掛かりたいだけ。
つい先日まで付き合っていた男は、先程此方を見ていた男だ。何故あんな奴と付き合っていたのか、今では本当に疑問に思うが、私は彼に支配されていた。彼に予定を合わせ、彼の好みに合わせ、彼が嫌がる事はしない。知らずに彼が嫌がる事をしたら、彼が許してくれるまで謝る。そうやって「私」を殺して「彼女」になっていった。いつだって神経は張り詰めていたし、いつだって彼にどう思われているかが気になっていた。そうして分かったのが、「私」を殺し続けなくちゃ彼は私を愛してくれないという事。…今では、本当に愛されていたのかすら分からない。
だから、彼から求められなければセックスはしなかった。そして私も、彼とそうしたいとは思わなくなっていった。最後の方は、抱かれる度に気持ち悪くさえなった。確かに身体は熱くなったけれど、目の前にいる男が気持ち悪くて「なんで私抱かれてるんだろう」と疑問に思った。ただ、全てが終わった後彼の腕枕で寝るときだけは、安心できたから、その為だけに抱かれていたのかもしれない。

だからこそ。
だからこそ、匡の優しさが沁みた。たまたま一緒に飲んでる時に、たまたまそんな話題になって、いつだってふざけ調子のあいつが「大丈夫か」なんて真顔で言うから。「慰めてよ」なんて、最初は殆ど冗談のつもりだったのに。なのに、匡は私を抱いてくれた。私を気遣う仕草ひとつひとつが、嬉しかった。


目頭が少しあつい。泣いてなんていられない。何せ、仕事は山積みだ。しかも先程から私はそれを増やしてしまっている。シャキッとしなくちゃ。




缶に残ったコーヒーを全て喉に流し込み、缶をゴミ箱に捨てた。屋内に足を向け、階段を登りながら携帯を確認する。15字48分。丁度30分程抜けていた事になる。事務所に戻ったらまず上司と、それから今迷惑をかけている皆に謝ろう。もう、大丈夫そうだ。
上り切った階段の先、事務所のドアに手をかけようとしたところで携帯のバイブが鳴った。一回のみ。どうせコンタクトショップのメルマガか何かだろうと携帯を見るとメッセージが一件。


不知火匡:今夜飲み行かねえか?


喉に石が詰まったように、息が出来なくなった。










-to be continued

次で多分おわります

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