きみが好き

一目見ただけで、どくどくと胸に血液が集まっていくのを感じた。
あの日の、あの熱が一気に蘇ってくるようで、一気に心が潤っていくようだ。
けれど、彼の横にあの日の私と同じ表情で笑う女性の姿を認めると、その熱はまるで氷のように冷たくなり私の体を冷たくした。まるで身体の真ん中が石になってしまったかのように動けなくなってしまった。

あれから、転勤があって、戻って来たのは別部署。元いた部署とはフロアが違うから、前の部署の人たちと顔を合わせる機会は殆ど無い。
だから、あの日別れた恋人を目にすることも無かった。今日が、初めてだ。
たまたま普段は行かない自販機へ足を向けようとエレベーターを降りたところで、此方に歩いてくる二人を目にしてしまった。そのまま急いでエレベーターの中に隠れれば良いのに、上手く動けなくなった私は不格好にそのまま茫然と立ち尽くした。

「苗字…」
「斉藤、くん」
「…どなた?」

間もなく私の姿に気付いた一君…とはもう呼べない彼は、相変わらず綺麗な顔であの日と同じように真っ直ぐに私を見た。
見つかってしまっては避ける事はできない。急速に硬くなっていく頬筋を無理矢理持ち上げて、笑ってみせる。すぐに、彼の横にいる女性が私を見てから斉藤君に尋ねる。

「以前、斉藤君と同じ部署にいた苗字です。京都支社に転勤の後今は商品企画部に異動になったんです」
「ちょうどお前が異動してくる前の話だ」
「そうだったんですね。あ、私今斉藤さんと同じ法人営業部にいる鈴鹿です」
斉藤君の横にいる女性は、空気をやわらかくするような笑顔を私に向けた。視線が絡まった瞬間、私の中にある斉藤君への想いを見透かしたかのように彼女は斉藤君に一歩近づいて、腕を組む。斉藤君は慌てた様子でそれを見るけれど、外そうとはしない。つまり、そういう仲なのだろう。
「じゃあ、私この先の自販機に用があるから。またね」
「あ、ああ」
「失礼しまーす」

二人の横を通り過ぎるまでなんとか笑顔を保っていたのに、通り過ぎた瞬間涙がわなわなと溜まっていくのを感じて、急いで廊下を曲がった。ずくずくと胸が痛い。私は背を壁に預け、両手で顔を覆いながらずるずるとその場に蹲った。
両手で押さえているのに、涙は止まらない。先ほどの腕を組んでいる二人が何度も何度も瞼の裏に映っては私の心を容赦無く刺す。彼の腕を取ったあの子が、羨ましい。妬ましい。私にはもうその資格が無いのだ。
真面目一辺倒で、純粋で、優しくて、不器用な、彼が好きだった。…好きだ。あの日、何故別れを告げられたのか。何故別れなければならなかったのか。その理由はわからない。「別れてくれ」とただ言われただけだった。思いつめた表情をした彼に、それ以上そんな顔をしてほしくなくて、心は一君を求めていたのに私は頷いた。一君が、それで笑ってくれるなら良いと思ったから。
だけど上手くけじめのつけられなかった私は、結局京都に行っても、戻って来ても、一君の事ばかりを考えていた。また会いたい。会えたら、きっと元に戻れるって。有り得ないのに、そんな事ばかり考えていた。どこかで私は特別なんだ、って、ふられた身なのに大真面目にそう考えてた。
その能天気さがふられた原因だったのだろうか。しっぺ返しがきた。可愛い女性と二人で歩く、一君。口には出さなかったけどきっと今の恋人だろう。

「っあー…つら…もう1年以上前にフられてんのに、今更失恋かあ…」
ずびずびと鼻をならして、涙がそれ以上零れないように顔を上げて天井を見る。無情にも涙は目尻からはらはらと零れていく。頬が冷えていくのを感じながら私はもう一度大きく鼻を啜った。
暫くそうしていると、今度は笑えてくる。そう。そうだ。本当はもうとうの昔に失恋していたのに、どれだけ楽観的にその別れを受け止めていたんだ。私は。
そう思うと失恋のショックよりも、能天気すぎた自分がおかしくて、涙は自然と止まる。暫くすると、ヒールのまま壁に凭れて座っていたせいで足がしびれ始めた。
「お茶でも買って、戻るかなー」
腕時計を見ると、大分時間が経ってしまっていた。急いで立ち上がると、案の定脚の裏側が痺れる。なんとか不格好にならないよう歩きながら、必死に痺れに耐えた。


お茶を買って部署に戻ると、不知火先輩が角を生やして待っていた。急いで謝って、仕事に取り掛かる。幸い、忙しかったせいでそれ以上失恋のショックに浸る時間は無かった。窓から見える空が真っ暗になった頃、漸く仕事が片付いて「まだやる事がある」と云う先輩に一言挨拶してから私はフロアを出た。
エレベーターに乗って、1階のエントランスに降りる。今日はあんなことがあったし、仕事も頑張ったから平日だけどお酒を飲もう。帰りにコンビニに寄って、デザートも買っちゃおう。
かつかつと自分の足音が鳴るのを聞きながらエントランスを抜け、ビルを出る。もうすっかり風の匂いも春だ。
「苗字…!」
「え?あ、斉藤君…。どうしたの?待ち合わせ?」
ビルを出て小さく深呼吸したところで、思わぬ声がかかった。声だけで、誰だかわかる。なるべく平静を装って彼を振り向くと、少し慌てた様子で彼が此方に近付いてきた。
「いや、あんたに話があって待っていた」
嫌な予感が、する。律儀に先程の彼女と付き合っているとでも報告してくれるのだろうか。さっき廊下で泣いたお蔭で大分胸の内はすっきりしていたのに、再び針に刺されるように胸が痛みだした。でも、それすらもなんとか隠して笑顔で取り繕う。
「そ、うなんだ…ここだとあれだし、ちょっと場所うつそうか」
「そうだな」
指差す先は、小さな公園だ。近所のマンションの子供たちがよく遊ぶのだろう。遊具の多い公園。昼間はサラリーマンの憩いの場にもなっている。二人で手近なベンチに腰掛ける。

「いつ戻って…」
「えっと先月の1日付けでこっちの商品企画に」
「そうだったのか。てっきりまだ京都にいるのかと」
「ううん、元々期間限定の転勤だったし。…面白かったよ。むこうの支社。全然こっちと色が違うというか」
少し距離を取って隣に座った斉藤君は、いつも隣にいた時と同じように柔らかく笑った。その笑顔を見るだけで、過ぎた日を思い出してしまう。彼の隣は、とても居心地が良かった。
「それで、話って…?」
思い出に耽りそうになる自分を現実に引き戻し、斉藤君に尋ねる。大丈夫、心の準備は出来ている。なんなら結婚するとか言ったっていい。そう腹を括っているうちに、斉藤君の表情が曇っていく。仕舞いには視線を逸らされてしまった。
「どう、話せば良いのか…。昼間あんたと会った時からずっと考えているのに、結局今の今まで答えが見つからない」
「斉藤君…?」
斉藤君は一度大きく深呼吸してから、私を真っ直ぐに見た。
「あの日は、急に別れを告げて、すまなかった」
「え…と、ううん。私にも何か問題があったんだろうし。もう1年以上も前の事だから気にしてないよ。あ、そういえば昼間一緒にいたのって今の彼女でしょ?可愛いよね、声も高くて」
それ以上何も聞きたくなくて、話題にも上っていないことをべらべらと自分で話してはその内容に傷つく。
「違うんだ、名前」
斉藤君は彼を見ないで話し始めた私より、少し大きな声で私の声を遮る。
「違う…?あ、まだ付き合って無いってこと?」
「そうじゃない。彼女とは…鈴鹿とは、別れた」
「…え?」
僅かな衝撃が、私の胸を衝く。早鐘のように心臓が鳴る。
今日1日で寿命が何年縮まっただろう、なんて、頭の隅で考えながら真剣な表情で此方を見る斉藤君から視線が逸らせなくなってしまった。
「俺は、」
どんな言葉が続くのだろう。先が気になるのに、斉藤君はなかなか口を開かない。何かを言いよどむように唇を一文字に引き結んで、顔を赤らめたり、急に悲しそうな顔をしたり。
「斉藤、君…?」
私の声にはっと目を見開いた斉藤君はもう一度口を引き結ぶと私との距離を少し詰めて、私を見下ろした。
「俺は、あの日あんたと…名前と別れたというのに、ずっと名前を想ってきた。途中何度も諦めようとしたが、気持ちが理性を上回り、結局お前の事を好きなまま他の女性と交際をしたりした」
「えっと…」
「あの日あんたを振った俺が、こんな事を言う資格なんて無いのは百も承知だ。名前の中に俺が居ない事も分かっている。だが、人助けだと思って聞いて欲しい」
そこで一旦言葉を区切った斉藤君は、小さく息を吐いてから、口を開く。
「好きだ。名前。ずっとあんたを想っていた」
「な、んで…」
言葉が上手く出てこない。何故。どうして。じゃあ、あの別れは何だったの?疑問と同時に、表現しきれないほどの嬉しい気持ちが、湧く。気持ちがふたつの気持ちでいっぱいっぱいになった私は、溢れ出る想いが涙に変わってはらはらと頬に落ちていった。
「ずっと、ずっと諦めようと思ってて…でも今日幸せそうな一君みて、ようやく諦める決心がついたのに、ずるい。ずるいよ」
「名前…」
「すき。すきだった。ずっと一君が好きだった。ふられても、連絡を取らなくても、隣に彼女が歩いてても。ずっとずっと一君が好きだった」
泣きじゃくりながら、子供のように好きだと繰り返す私の頭を、大好きな大きい手が撫でる。しっかりアイロンのかかったシャツに顔を埋めて、彼のネクタイやシャツが汚れるのなんかお構いなしに泣く。
「すまなかった。名前」
「…責任、とってよね」
昼間と同じように鼻を鳴らしながら、彼から身体を離して見上げる。
「ああ」
一君は、私の大好きな優しい目で私を見下ろすと、ここは公園だというのに彼らしくもなく、きつくきつく私を抱き締めた。
「一生を使って、責任を取ろう」
息苦しさや腕の痛さよりも、久しぶりに感じた体温が愛おしい。首筋にあたる彼の髪に頬釣りするように頭を預けて、私も彼の腰に腕を回した。

「好きだよ、一君。ずっと、だいすき」

一番伝えたい事だけを、彼に届くように、たくさんの想いを込めて囁くと、抱き締められる腕が更に強くなった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -