黒い雨

「名前…!名前…!」
川が天から降ってきているのではないかと思うほどの、強い雨夜の出来事だった。




*




最初に異変に気付いたのは、雪村だった。
夕餉の支度の時間になっても、名前が帰って来ないと、副長に報告が上がった。話によれば、昼餉の片付けを終えてすぐに夕餉の買い出しに出たっきり姿が見えないと。
普段外出しても殆ど寄り道などしない、真面目な娘だ。すぐに何かあったのではと皆口々に心配を言葉にする。

「おい、時間ある奴は探しに行くぞ。じきに日も暮れる。急げ」
低く、広間に副長の声が響いた。雪村に留守番と伝言係を頼み、捜索が始まった。

空は蓋をしたように厚い雲に、覆われていた。

手分けして、捜索が始まった。
俺は、京の西側を探す事となり、道行く人に声をかけながら細い路地を覗き込む。半刻程経ち、空気に土の匂いが強く含まれる。間もなく雨が降るのだろう。ここにきて傘を持って来なかった事に気付いた。
「御免、」
一度引き返すべきか、と思った所で丁度道の先にある茶屋が店仕舞いをしようと、男が暖簾を上げているのが目に入った。何か情報は無いかと、祈る気持ちで、何度目かの声を掛ける。

「ああ、こんおなごなら昼八ツ半頃になん人かんおとこしに連れて行かはるんを…確かこん道を西に歩いていかはった」
一気に、血の気が引いた。短く男に礼を言うと、その道を駆ける。本来であれば一度屯所に戻るべきであろうが、あと半刻もしないうちに日も暮れる。そうなってしまえば余計に捜索は難しくなるだろう。

脳裏に名前の笑った姿が、浮かんだ。
新撰組預かりの身の雪村とは違い、元々新撰組の世話をする為に八木氏の紹介で出入りするようになった娘だった。
明るく、朗らかで、人当たりの良い性格の彼女は、瞬く間に新撰組内に潤いを与えた。隊士が増えるにつれ、雑務の量も増え、ここ1年は大幹部と言われる者たちの面倒を専門にみるようになった。それでも時間があれば他の隊士達の洗濯物を引き受けたり、針仕事をするなど、熱心な仕事ぶりを見せていた。押し付けがましくない彼女のその姿には好感を持っていた。
『一君』
少し高めで、柔かな声。遠慮がちに口元を隠して笑う彼女。
以前、手の空いた時間に、二人で洗濯物を畳んだ時に、ふと彼女が放った言葉を思い出した。
『一君は、優しいね』
普段の俺に、そのような事を言う者なんていなかった。胸の底から湧き上がる感情にその時は俺自身戸惑ったが、今思えば、あそこから彼女を想う気持ちが変わったのだ。一人の、女子として好いていると。


とうとう、雨粒が落ち始めた。濡れる事など気にせず歩を進めると、左手に小さな寺が見えて来る。
「―…、…!」
雨音に紛れ、聞き取れこそしないものの、人の声がした。雨音に隠れるように声のする方へと歩んで行く。
「くそ!良い加減口を割れ…!このアマ!」
「ッぐ、ぁ…!」
名前が、居た。柱に身体を縛られ、服は乱れ、顔には痣や傷が見える。乱れた髪の内からはおよそ生気の見えない虚ろな瞳が覗いていた。
窓の隙間から見えたその光景に、一気に頭に熱が昇り様子見などせず、戸を開け放った。勢い良く空けた戸は大きな音を立て、中にいる者達に俺の存在を知らせた。
「てめぇ!何者だ!」
「新撰組三番隊組長、斉藤一」
「くそ!なんで…!」
「そこの娘を迎えに来た」
腹の底から、言葉に怒気を乗せる。中に居た男は三名。雨の音が強くなると共に、全員が一斉に刀を抜いた。




「名前…!」
三名とも不逞浪士と変わらない程の腕でしかなかった。後に尋問せねばならない為、動けないが喋れる程度に切り、すぐに柱に括りつけられていた名前を救い出す。
何時間も縛られていたのだろう。縄を解いた彼女の体は崩れるように倒れ、腕は青黒く変色していた。
「はじめ、く…」
俺の知っている、うつくしかった彼女と同一人物とは思えない程、彼女の頬や瞼は膨れ上がり変色し、口からは何度も吐血した跡が残っていた。
けれど、その瞳だけはいつもと変わらない慈しみと優しさを湛えている。
「今他の者も手分けしてあんたを探している。急いで屯所に戻る故、ここで…」
彼女の目が、優しく細められた。
「名前…」
彼女を抱きかかえた俺の手に、彼女の手が、添えられた。もう、わかっている、と、言われた気がした。
「しかし…!」
「来てくれて、ありが、…っ!」
咽るように再び血を吐く彼女を抱え直し、その手に力を込めた。目頭に熱が籠る。
「泣かな、で…」
あたたかな掌が、俺の頬に触れた。ずっと、触れたいと思っていた彼女に、このような形で触れる、なんて。




雨脚は強くなる一方だ。殆ど明かりなど無くなった屋内で、名前は静かに笑った。
もうこれ以上は、彼女を苦しめるだけだと、悟った。



「ごめ、なさ…」
「…あんたが、謝る事ではない」
「はじめくん、」
「名前…」
己の気持ちを伝えるのは、憚られた。きっと、彼女を苦しめてしまう気がして。それなのに、目の前にいる彼女は、穏やかに笑って、俺のそんな気持ちすら包もうとしてくれていた。目頭に溜まった熱が、決壊する。
男たちを切った刀を一度拭き、彼女を柱に凭れ掛けさせた。
「…すぐに楽にしてやる」
一度目を閉じ、神経を集中させる。雨音だけが、響いていた。





たった、一突きだった。
彼女の眉は一瞬で寄ったが、口元やその瞳は、いつものように笑っていた。
動かなくなった彼女を、只管に抱き締める。
その熱が、無くなるまで。


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