やわらかな空気

月曜日の絶望から諦めの火曜日と来て、週末までまだ3日もあると誰もが憂鬱になる水曜日。その水曜日が私には楽しみで仕方なかったりする。3限が終りいつものように購買へ向かう。飲み物とおにぎりを買って向かうのは、いつもの研究室。中にいるであろう人を思い浮かべると、むくむくと明るい気持ちが湧いてくる。
「土方せんせー」
中に入ると、研究室独特の匂いがする。もう馴染みになったその空気を小さく吸い込むと、頬が思わず上がる。予想通り中にいる黒髪美人はおにぎり片手に何か資料に目を通していた。邪魔にならないよう斜向かいに座ると、なるべく音を立てないように袋からおにぎりを取り出す。類似性の法則というものを知ってから、少しずつこの人と行動を似せるようにしてる。効果のほどは分からないけど。先生はいつもお昼に購買のおにぎりセット(鮭のおにぎりとおかかのおにぎり、から揚げ1個と沢庵がセットになってる)を食べているのを知ってから、私も同じものをなるべく食べるようにしてる。勿論たまに別なものを食べる事もあるけど。
おにぎりを両手で持って、てっぺんを頬張る。彼が話さない時は忙しい時。話してくれる時は時間がある時。つまり今は前者な訳だ。4限の授業は取っていないから、運よく先生の手が空けば話してもらえるし、手が空かなければずっとこのままだ。そういう時の為に私は私で本を持って来ている。(ちなみに今は山南先生おすすめの近代文学。金閣寺。先生曰く『今で云うツンデレなんですよ』とのこと)。
土方先生の髪がさらり、と頬にかかった。男性にしては長めの髪は基本的に降ろされている。たまに出張するときなんかは纏めると言っていたけど。かかった髪をそのままにもくもくと目を動かす先生。あんまり見過ぎると怒られるから、途中でお茶を手にとって、それを眺めてみる。
先生の事は好きだけど、先生が私をどう思ってるかは分からない。でも、近くにいても邪魔さえしなければ怒られないし、時間があるとちゃんと話してくれる。時間があればお昼を一緒に食べてくれる。いつかはお付き合いとかできたらな、と思うけど、約一回り歳が違う事を考えると、恐らく難しい。
―それでも…

「苗字」
「はい」
「あと10分もすりゃ終わるからコーヒー淹れてくれ」
「はい!」
顔は動かさないまま、綺麗なむらさき色の瞳が私を捉えた。とくん、と、胸が高鳴る。勢い良く返事をすると、先生の薄くて形の良い唇が薄ら笑みを浮かべた。釣られるように笑い返し、コーヒーの準備をする。インスタントでなく、ちゃんと淹れるのは先生の唯一の楽しみらしい。こぽこぽと焦げ茶の粒たちが泡を立てながらお湯を飲み込んでいく。
「お待たせしました」
少し薄めが先生の好みらしい。前に間違えて薄めに淹れてしまった時に「飲みやすくて良い」と言ってもらえた。
先生は無言でマグカップを手に取ると、一口コーヒーを口に含み、また作業に戻る。それを見届けると、私は先ほどのコーヒーの片付けを始めた。

「そろそろ豆切れるだろ」
「はい、多分明日の分は大丈夫かと思いますが」
ポットにお湯を足した所で声がかけられた。振り返ると資料を片付けていた先生が此方を向く。
「買って来ましょうか?」
「いや、いい」
自分の分のコーヒーを持って元いた場所へ戻る。先生は机に置かれた小説を見て、眉をしかめた。
「三島か」
「はい、山南先生のおすすめだそうです」
先生は本を手に取ると適当なページを開いて文字を目で追っていく。綺麗な白い指が表紙にあてられていて、思わずうっとりとしてしまった。
「山南さんらしいな」
ほら、と私に本が差し出される。まだ半分も読み終えていないけど、多分先生は読んだことがあるんだろう。だとしたら、読み終わったら本の話が出来る。きっかけを作ってくれた山南先生に感謝だ。後でメールしておこう。
「苗字、確か5限授業あったよな?」
私が頷くと、先生は人差し指を口元に当て何かを考えているようだった。
「土方先生?」
「授業の後予定あるか?」
「え?特に無いですけど」
何を急に、と視線で問うと、先生のむらさき色が窓から入る光できらりと瞬いた。本当にズルいくらい、恰好良い。顔が赤くなったのを自覚して、きっと先生にもバレてるだろうけど、少し俯いて髪で顔を隠した。
「なら、授業の後少し付き合え。帰りは送ってやる」
先生は私の仕草に言及はせず、言葉を続けた。言葉の意味が一瞬分からずせっかく俯いたのに、私はまた先生を見上げてしまう。顔はたぶん、赤いままだ。
「何処か行くんですか?」
「コーヒー、買いに行く」
さっき、行こうかと言ったのに。先生の綺麗な顔が、優しく笑ってて、この部屋の空気が全部柔らかくなったみたいで、私の気持ちはどんどん膨れ上がっていく。ずるい。ずるい。好き。
「…一緒に行って良いんですか?」
期待してしまう自分を、少しでも冷静にさせたくて、わざとそんな質問をしてみる。
「来たくねえなら来なくて良い」
言葉は私を突き放すのに、先程から向けられている視線は依然優しいまま。もしかしたら、期待しても良いのかな。なんて、少女漫画みたいな発想をしてしまう。友人達曰く、ポジティブすぎる、とのこと。でも、これは、自惚れても良いよね。
「行かねえのか?」
「行きます!」
先生の眉が少し吊り上って目つきが鋭くなる。慌てて返事をすると大きな手で頭を撫でられた。こうして頭を撫でてもらえるのも、私の特権。もちろん先生のファンの子達にはバレないようにしてる。だって、他の子を先生が撫でるのも嫌だし、変に言いがかりをつけられて先生に撫でてもらえなくなるのも嫌だから。
今まで、そういうトラブルが無かったのは、この時間がいつも二人きりだからだと思う。いつも色んな女の子に囲まれている先生がこの時間だけは私と二人きり。どういう訳か、最近は誰も訪ねて来ない。もし、先生が人払いをしてくれていたとしたら、それはとても嬉しい。

「何笑ってんだよ」
私がひとり、想像を膨らませていたのが、どうやら顔に出ていたらしい。先生は怪訝そうに私を見ている。その視線すら少し戯れているようで、嬉しくなってしまう。
「なんでもないです」
目を細めて笑うと先生が鼻から息を吐いて、小さく笑った。また、室内の空気が柔らかくなる。


―それでも…私は先生と一緒に居る時の、この空気がとても好き。


「折角のデートなんだから化粧くらい直しておけよ」
先生のの一言に、顔に熱が集中する。
「で、デートって…!」
「ほら、チャイム鳴ったからとっとと行けよ」
不敵な笑みを浮かべる先生は、私の背を押して、廊下へと出す。デートという言葉に私の頭は半ばくるくると混乱している。されるがまま廊下に出された私は、からかわれているのではないかと先生を振り返る。
「あの…!」
「質問なら後。次のコマ新棟だろ。急がねえと遅れんぞ」
わしゃわしゃと頭を撫でられ背中を押されたら、それ以上言えず仕方なく廊下を歩き始めた。バタバタと隣を数人の生徒が走って行く。
「おい、名前」

今、名前…

「また後でな」
まさか、と振り返った瞬間、感じた額の感触。私がそれが何かと認識する頃には先生は研究室のドアを閉めて中に入っていってしまった。






次のコマが終ったら。
もしかしたら世界は変わるかも知れない。

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