17時間後の約束

「っあー!終わらねえ!!」
背後で、藤堂君の叫び声が聞こえる。その声で集中力の切れた私は詰めていた息を吐き出し、PCのモニタに表示された時計を見た。3:16。午後ではない。午前だ。タイムリミットまであと5時間。
切れてしまった集中力は、なかなか元には戻らない。コーヒーを淹れるべく席を立った。私の席の右側で同じようにPCを弄っていた原田課長が顔を上げた。
「苗字、終わりそうか?」
「数字と見解を纏め終わったので、これから来月の戦略と効果予測を纏めて、目標数字を出して…資料の体裁を、整えます」
自分で言いながら、やる事の多さにうんざりする。毎月の事とは言え、締日の翌日に先月度の見解と来月度の戦略を資料にして出すのは、難しい。他の部署ならまだしも、うちは締める瞬間まで数字の動く部署だ。
「原田課長、コーヒー飲みます?いれてきますよ」
「いや、いい。俺も行く」
原田課長はそう言うとモニタ横に置いていたマグカップを手に取り、立ち上がった。
「平助、何か飲むか?」
「…あー…お茶、あっつい日本茶!」
藤堂君は此方を向かないままに叫んだ。相当切羽詰っているらしい。彼は今月、目覚ましい結果を出したから、おそらく今回の資料に昇進がかかっている筈。本人もそれを自覚している為か、先程からあの様子だ。
「行くぞ、苗字」
「はい、」
藤堂君の向こうに見える外は、まだ暗い。日が昇る時間にはまだまだある。しかし、流石眠らない街だ。近くのビルや街頭はこの時間であっても明るい。きっと、外は綺麗に着飾った女性たちが歩いているのだろう。彼女達を半ば羨ましく思いながらも、教養や器の小さい自分にホステスなんて向いてないと思い、頭を振った。



給湯室で、コーヒーメイカーが音を立て、良い香りを漂わせている。
「…毎月の事とは言え、きっついなー」
「同感です…まあでも今月は木曜締めの金曜月初なので、明日を乗り切れば土曜日ぐっすり寝れますよ」
「…だな。最悪なのは月曜締めの火曜日月初だよな」
「先々月それでしたよね」
「あれは本当に死ぬんじゃないかと思った」
壁に背を預けながら、原田課長が笑った。つられるように笑っていると、ふと、原田課長の瞳から笑みが消えた。
「どうかしました?」
不思議に思って問いかけると、原田課長は背を起こし、此方に一歩近づく。
「名前、」
名前、と、呼ばれた。社内では交際を秘密にしている為、こう呼ばれる事は、普段はない。
「左之…さん?」
咄嗟にいつも通り彼の名を呼んでしまう。真っ直ぐ此方を見つめる綺麗な琥珀色が、笑った。
「明日、仕事切り上げたら俺ん家来ないか?」
「寝るだけになっちゃいますけど、良いんですか?」
牽制するように言うと、左之さんは声を上げて笑った。
「ははっ、流石に俺も徹夜明けにやる元気はねぇな」
「っ、」
顔が、赤くなるのを自分でも感じた。隠すように慌てて藤堂君のお茶の準備をすると、左之さんが覆いかぶさるように、後ろから私の右手を包む。背中に、左之さんの体温を感じた。
「まあ、お前がどうしてもって言うなら頑張るけど」
「…頑張らなくて良いです」
口早に返答すると、また、左之さんは笑った。この人には敵わないと、諦めながら、彼に抑えられてしまった右手をどうしようか考る。
「なあ、」
ふと、耳元に、低く甘い声が、届いた。
「名前」
名を呼ばれ、反射的に右側から振り返るように彼を見る。
「土曜の朝、お前の作った朝飯が食いたい」
「…簡単なものしか、できませんよ」
「何でも良い。目玉焼きだろうが、トーストだろうが」
「それ、誰が作っても一緒じゃないですか」
大人の声を出すくせに、その内容が可愛くて、思わず笑うと、横を向いたまま唇に彼の熱が当てられた。
「左之さん、ここ、会社」
「誰もいねぇよ」
左之さんはそう言うと、もう一度私の唇を奪った。数回、そうして私の唇を啄んだ後、ゆっくりと離れて私の後頭部に1度キスすると、私の右手も解放された。
何も言えないまま、藤堂君のお茶を用意して、自分達のマグカップにコーヒーを注いだ。先程キスしたせいか、胸が僅かにときめいている。少し恥ずかしくて、左之さんを見られなかった。
「行くか」
「はい」
左之さんは自分のマグと藤堂君のお茶を持ってくれた。矢張り、それ以上会話は無く、二人で並んで先ほど来た廊下を戻る。

「名前」
「はい?」
フロアの入り口の前で、振り向き様に名を呼ばれ、応えた瞬間に、再び唇を奪われる。
「左之さん…!」
流石に、此処だと誰にみられるか分からない。恥かしさを誤魔化すように少し声を荒げると、左之さんは私の大好きな、優しい笑みを浮かべた。

「朝飯、やっぱりいらねぇ。その代り、土曜一日、お前の時間俺にくれよ」
「…」
「ダメか?」
眉を寄せ強請る彼。好きな男にこんな顔をされて、誰が断る事が出来るだろうか。
「月初ミーティングで、部長からの怒号が飛ばなければ、朝ごはんも作りますし、土曜日ずっと一緒にいます」
自分で言いながら、段々恥ずかしくなってしまい、最後は尻すぼみになるように声が小さくなってしまった。けれど、左之さんを見るとちゃんと言葉は届いていたようで、彼の表情からは驚きが読み取れた。
私ばっかり恥ずかしがって、翻弄されるのが悔しくて、驚き顔の彼の肩に片手をかけ、少し背伸びして頬に唇を寄せる。

「さ、頑張りましょう。原田課長」
「お前は、本当俺の扱い方を知ってるな、苗字」



クスクスと、二人で笑いながら、席に戻る。藤堂君は相変らず唸っていて、原田課長は彼にお茶を届けてその頭をわしゃわしゃと撫でた。
二人のそんな後ろ姿を見て、和んだ気持ちでPCに向かう。時間は3:42。あともう少し、頑張ろう。17時間後には、左之さんの家だ。



高鳴る胸を抑えて、私は目の前の資料作りに専念した。


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