アカシア


「苗字、今日飲み行かねぇか?」
「いいですね、たまには2人で飲みましょうか」
水曜日。月に2回のノー残業デーに浮かれつつも、18時半には絶対退社の決まりに、仕事は残せないと慌ただしい雰囲気のオフィス。
マーケ部門入社2年目の苗字名前に声を掛けたのは、彼女が入社した際教育係にあたったマーケ部門入社4年目、企画部リーダーの原田左之助。本能的に人の心を掴むのが上手い人だ。
「じゃあ仕事終わったら大通り沿いの花屋の前で」
「わかりました」
「後でな」

18時25分。
約束の場所に着いた左之助は名前がまだ来ていないと分かると、店内へと足を向けた。
晩夏とは名ばかりで寝苦しい夜も続く。店内に置かれた花も夏の花なのか、鮮やかな色のものが多い。
大通り沿いにあるためか、人に贈る客が多いのだろう、花のネームプレートの下には花言葉が添えられている。
そういえば、以前紫陽花は結婚式に使ってはいけない・想い人にあげてはいけないと、誰かが言っていた気がする。
店先には小さな鉢植えに木も植えられている。アカシア。蜂蜜でよく聞く名だ。
その花言葉を見て、左之助は小さく苦笑した。
「原田先輩、お待たせしました!」
声のする方へ顔を向けると、僅かに汗をかいた名前が立っていた。
「いや、俺も今来た所。…そんな汗かくほど外暑かったか?」
「あー、これ、さっき総司君につかまっちゃって…」
「ああ、飲み会のネタ探しか…土方さんの」

左之助と名前は、会社の先輩・後輩である前に、大学時代の先輩・後輩の仲でもある。
そして現在もよくつるむその他の仲間も大抵が道場仲間だったり、学生時代から仲が良かったりと関係が長い。
仲間の長の位置にいる土方は、現在会社の統括部長兼営業部部長であり、左之助の大学時代の先輩であり、名前の恋人だ。
その恋人は今日、営業部全員強制参加の飲み会である。下戸である彼の部長も、面白半分で部長を怒らせる割には成績優秀な沖田も参加だ。
おそらく会社のエントランスで捕まって、なかなか離してもらえなかったんだろう。

「ノー残業デーに飲み行くの久しぶりです」
「まあ水曜だし、大抵家に帰るよな」
花屋から出て大通りを2人で歩く。日差しは昼間より幾分和らいではいるのだろうが、暑いものは暑い。
左之助はジャケットを脱いで腕に抱えた。
「で、どこ行きます?」
「この間見つけた店があるんだ」
大通りは人目に付くが、さして気にはしない。それに会社の人間は1本入った道を使う。その方が人の通りが少なく、カフェや飲み屋が多いためだ。
大通りを駅に向かって歩き、そのまま駅を通り過ぎて駅の反対側へ。1本入った路地にぽつりと目的の店はある。
空は赤から紫へ色を移し、間もなく藍色になるだろう。
「相変わらず、御洒落なお店知ってますね」
「この間新八なんかと飲んだ帰りにたまたま見つけたんだ。あいつらとだと入りづらいだろ?」
新八は飲むと騒ぐし絡む。平助は連れてきても大丈夫だろうが、見かけによらず洋酒より日本酒を好む為、こういった店はあまり好まない。
店の入り口に置かれた白い兎の置物は、普通であれば愛らしく親しみやすい印象を与えるが、その目つきのせいか、それとも陶磁の質感のせいか、店の敷居を上げている。
横に置かれたボードにはただ「Bar Evol」の流れるような文字が書いてあるだけ。
左之助がドアを引き、名前を中へ促すと一度左之助へ視線を向けた後、名前は中に入った。

店内には既に2組ほど客が入っており、店内のBGMと共に控えめな会話が聞こえてくる。
顔なじみの店主は左之助に連れられた名前を見ると笑みを深くし、カウンターの奥の席を案内した。
「こういうお店って、普段あまり来ないから勝手がわからない…」
困ったように、少し恥じらいながら口にする名前を席へ座らせると左之助は隣に座りながら笑った。
「なら、店主にそう言えばいいさ。こういう店の人は知らない人には優しく色々教えてくれるもんだ」
カウンターに置かれたメニューを手に取って名前に見えるように開きながらファーストオーダーを何にするか促した。
「居酒屋にあるような酒も、こういう店で飲むと全然違う」
「じゃあ…ピーチフィズ」
「ピーチフィズとジンフィズを」
頃合いを見計らって来た店主に1杯目を頼み、2人は談笑を再開した。

酒も2杯3杯とどんどん進み、つまみも進む。
入り口の敷居の高さとは裏腹に、店内は意外と居心地が良い。何より、左之助の言うように酒が美味しい。
酒の味などわからないと思っていた名前だが、1杯目のピーチフィズの美味しさに驚いた。酒に強い訳ではないので、薄めにしてほしいとオーダーしたので酔いも回りすぎず心地良い。
「そういえばこの間、新八が、」
共通の友人が多い分、話せる内容も多い。特に左之助と新八は同じマンションに住んでいる為、仲が良い。
「またやったんですか?」
左之助の話を聞きながら控えめに笑う名前。会話の合間にうっとりと見つめるのは、その左薬指に嵌る白金。
今、この場で一緒に笑い合っているのは自分なはずなのに、彼女の心の隣にいるのは自分ではないと思い知らされるようで、左之助は一口酒を口に含んだ。
一度気づいたその心の距離の違いは、様々な部分に表れている。その1つ1つに気づく度、彼女の恋人は自分ではないことを思い知らされるようで段々上手く笑えなくなってきた。
「そういえばこの間歳くんが、」
会話の隙間には必ず彼女の恋人の名が出る。会社から出ると、名前は上司・部下の関係ではなく旧友や恋人として話す。その為、外では「原田リーダー」ではなく「原田先輩」そして「土方部長」ではなく「歳くん」。
名前の事は何でも知りたいと思う筈なのに、それ以上彼女の恋人の話は聞きたくない。
会話を遮るように懐から出した煙草に火を着けた。
普段であれば一言添えるのだが、煙を肺に吸い込んだ後で相手に許可をもらうのを忘れた事に気づく。完全に飲みすぎたようだ。
「悪い、煙草大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
歳くんも吸いますから、と、言わずとも分かる二の句に苦笑を零し、左之助は店主にチェイサーを頼んだ。

この店を知ったのは1年ほど前の事だった。
仕事柄、多くの雑誌を読む。そのうちの1誌「pen」で紹介されていたのがこの店だった。
職場からも近く、雰囲気も良さそうだった為、今日のようなノー残業デーに1人で来た。
店主の詮索しすぎない雰囲気も、客層も、店の雰囲気も、そして何より酒の味の良さも、彼を常連客にするには十分な材料だった。
それ以来、1か月に1,2度顔を出すようになり、店主も左之助を覚え、味の好みも把握された。
とは言っても殆ど店主との会話は無い。気候の話をしたり、時候の話をする程度。
名前を連れて来たいと思ったのは、偶々居合わせた他の客が、男女のカップルで、その女性の雰囲気が少し名前に似ていたから。
店の雰囲気や酒の味に驚きと喜びを見せ、優しさと愛情を含んだ瞳でその連れを見ていたのを見て、連れて来たくなった。
しかし、ノー残業デーはいつも名前は恋人と過ごすという事を左之助は知っていた。
土方は忙しい人だ。ノー残業デーでもないとなかなかゆっくり出来ないのだろう。
そうやってタイミングを見計らっているうちに今日になった。

「そろそろ行くか?」
時計を見ると22時過ぎ。終電まで後2時間はあるが、明日も仕事だ。穴をあける訳にはいかない。
しかも、おそらく彼女は下戸である彼女の恋人の介抱がこの後待っているであろう。そちらもそろそろお開きの筈だ。潰れている土方の写真が、左之助の携帯に送られて来た。もちろん送信者は沖田だ。
「じゃあ、次で最後にしますか」
最後に1杯ずつ頼むと、名前はポーチを持って席を立った。
名前が店の奥へ消えたのを確認すると、左之助は店主に指をクロスさせチェックのサインを送った。
「切ないですね」
顔なじみの店主は人の好さそうな笑顔を向けてとても残酷な言葉を口にした。
「なんでそう思う?」
「あなたが女性を連れて来たのが初めてだから」
確かに、と笑って会計を済ます。程なくして軽く化粧を直し、爽やかな甘い香りを纏った名前が戻ってきた。昔から変わらない香水。恋人から初めてもらったプレゼントは自身で何度も繰り返し購入しているらしい。

「歳くん、大丈夫ですかね」
「いや、だめだと思うぞ。さっき総司からメールが来てた」
やっぱり、と言うかのように軽いため息と共に肩を落とす名前。
「土方さんほんっと下戸だからな、明日に響かないようにしねぇと」
そうですね、と笑う名前と左之助の前に店主は再び現れると目の前に小さなガラスの容器に盛られたジェラートが置かれた。
「アカシアの蜂蜜を使ったジェラートです。新メニューの試食です。よければ」
店主が名前に微笑みかけた後、左之助の方を見て目を細めた。ひどいことをする。左之助は苦笑してジェラートに手を伸ばした。
「すごく香りが良いですね」
思いがけぬデザートに顔を綻ばせながら香りの良いジェラートを口に運ぶ名前。
「なぁ、名前」
スプーンを口に含んだ瞬間の彼女が此方を向く。


「結婚、おめでとう。」


なんで、と、言わんばかりに目を見開く名前。
少し長めの前髪が目にかかったまま動けずにいる。
「土方さんから聞いたんだ。婚約したって」
婚約指輪はふつうもう少し派手らしいけれど、シンプルなもので良いと主張を続けたのは名前だったそうだ。
それならと大きめの石を一粒埋めたのは土方のせめてもの意思らしい。

「ありがとう、ございます」

スプーンから口を離し、控えめに、でも、とても幸せそうに微笑んだ名前は今まで見た中で一番美しかった。
その幸せに満ちた笑顔を見せられては自分の想いなど告げられる訳もなく、痛む胸に追い打ちをかけるように次の言葉を紡ぐ。
「土方さんと、幸せにな」
もうこれで全て終わりだ、と自分に言い聞かせながら自分もジェラートを口に運ぶ。痛む想いも飲み込むように。
甘い。そして、とても良い香りがする。アカシアの蜂蜜。
店主は左之助の気持ちに気づいたようだが、彼女はどうだろうか。いや、おそらく気づいていないだろう。でなければこんなに綺麗に笑える筈がない。
目の前で空気をやわらかくしながら微笑む彼女は、もう手は届かない。
ジェラートを食べ終え、席を立つと店主と目があった。いつも通り微笑む店主の目はいつもより少しだけ、細められていた。
ドアを開けた店主に続き、名前が外に出る。向けられた名前の後ろ姿。
このまま恋人の胸の仲に戻るのかと思うとやるせなくなり、思わず手を伸ばしかけたが、外から入って来た夏の夜のにおいにすぐに我に返り、その手を降ろした。
もう彼女は手の届かない存在なのだ。すでに一歩外に出た名前と、自分は違う道を行くのだと、たった一歩の差が左之助に思い知らせる。
諦めるにはもう少し時間がかかりそうだ。

外に出て空を見上げると細い上弦の月が輝いていた。

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