舞台




淡いグリーンの斜光カーテンを開くと、薄暗かった部屋に朝日が差した。昨晩の嵐が嘘のように、今朝は空が白く輝いている。
視界に入る強い光でまだ完全に覚醒していなかった頭がだんだんと冴えてくる。完全にカーテンを開け振り返ると、少し乱れたシーツに名前が横たわっていて、明るくなったせいか気持ちよさそうに身じろいだ。
やわらかな髪がシーツに波打ち、朝日を受けてふわりふわり輝きを飲み込む。昨晩泣きはらしたせいか、それとも未だ目覚めていないせいか、透けるように白い肌に赤い瞼が目立つ。
「名前、起きて。」
ゆっくりとベッドへ腰かけると振動が伝わり名前はまた身じろぐ。まるい額を撫でながら、名を呼ぶ。
「名前、」
ゆっくりと薄い瞼が開かれ、ぼやけた視界に僕を捉えると君は薄く微笑んで「おはよう。」とかすれた声であいさつした。
「おはよう。今日は晴れたよ。」
つられるように僕も微笑み返し額を撫でていた掌を頬へ滑らせる。気持ちよさそうに、くすぐったそうに君は笑って目を閉じた。
「じゃあ今日は散歩、行こうよ。雨あがりだからきっと気持ち良い。いつものパン屋さんでおいしいクロワッサンを買って。私カフェオレ作ってマグに入れてく。きっと美味しいよ。」
目を開きゆっくりと身体を起こすと両腕を天井へ伸ばし、伸びをしながら君は提案した。僕は小さく微笑んでベッドを立ちキッチンへ足を向けた。


こぽこぽとコーヒーメイカーから音がする。
大学に上がると同時に一人暮らしを始め、その時から愛用しているからかれこれ5年程の付き合いになる。
名前はまだ寝室から出てこない。きっといつものように今日着る服や髪形を悩んでいるのだろう。一通り決まれば出てくる筈だ。
その前に―、昨日散らかしたリビングを片づけなくては、彼女はきっと哀しい顔をするだろう。
リビングの真ん中へ行き、膝を折る。目の前には朝日を受けきらきらと輝くガラス片が不規則に落ちている。
そしてその中心に、彼女の大好きな小さな赤い薔薇が一輪落ちている。周りに花弁を散らし、その先を黒くして。
ため息がひとつ、漏れる。いつから僕らはこんな風になってしまったのだろう。夜が来る度君は不安に駆られ、僕はそれを疎ましく感じてしまう。朝がくればこうしてお互い元に戻れるのに。
名前とたくさんの日々を重た。そして今こうして僕らは一緒にいる。その一瞬一瞬が愛おしいのに、重苦しい。出逢った頃から、何も変わっていないと思っていたのに、ひとつのほんの些細なズレが次のズレを生み、そしてまた次を生んでしまう。君が僕を想うからこそであり、僕が君を想うからこそ、お互いに苦しんでしまうんだ。
そう、理解してはいるのだけれど、改善策も打開策も、浮かばない。僕らは近すぎるんだ。
でも、もう今更「少し」の距離を置く事はできない。それが名前のストレスや不安につながる事が容易に想像できるから。ぐるぐると考えていると人差し指に不意に痛みが走り、そこが熱くなった。
目を遣ると、赤く一筋、血が流れていた。
「何、してるんだろう、」
自嘲気味に呟いて消えた言葉に胸が痛んだ。とりあえずティッシュで指先を強く押して止血し、ガラス片を集め、名前に見えないよう袋に包み食器棚の下に隠した。一輪残った花を拾い上げるとぱらぱらと花弁が落ちる。一枚ずつ拾い上げそれはゴミと一緒に捨てた。
ひとつひとつ行動する度重くなる心は、どうすれば出逢った頃のように戻れるのだろうか。


「気持ちよかったね、秋風が吹いてて。」
散歩から戻ると君は笑って言った。もう何度も見ている筈のその笑顔に心がほぐれる。この笑顔は昔から変わらないまま、自分に向けられている。その事実が素直に嬉しい。
「せっかくだからもう少し外歩く?」
「ううん、今日はもういいや。ゆっくりしよ?明日からまた仕事だしね。」
「そうだね、僕も丁度読みたい本があったし、読書の秋でも満喫しようか。」
「じゃあ私も本でも読もうかな。」
「また恋愛小説?」
「うん。もうすぐ映画になるやつ。」
「はは、やっぱり。名前は変わらないね。」
変わらない答えに微笑み気味の髪をくしゃりと撫でた。ふわりと笑う君の頭に唇を落とし、本を置いている寝室へ足を伸ばした。
ぱたん、と、扉を閉めるとその空間に自分一人だけになった。
だんだんと頭の奥が冷えて行く。
わかっているんだ。本当は、このままじゃ全て壊れていってしまうこと。そうなる前になんとかしなくてはいけない。だけど、どうしたら、どうしたら良いのか。もうずっと考えているのに、たどり着く答えはたった一つしか浮かばない。でもそれを考える度怖くなる。もう、戻れないの?
頭を振りサイドテーブルに置いていた本を手に取りリビングに戻る。
名前の座るソファの反対側に腰をおろし、足を組んで栞の挟んであったページを開く。でも、目が文字を何度追っても内容が頭に入ってこない。さっきから考えている事がぐるぐると巡ってしまって、集中できない。
できない。できない。違う。したくないんだ。

僕が、君を、手放すなんて。

こんなに好きなのに、愛おしいのに、君がいればそれで、君が笑っていればそれで幸せなのに。
離れたくない。そう強く想う気持ちの反対側でもう一人の僕が冷たく言う。離れなくちゃいけない。
その事実を突き付けられると、もうどうしたら良いのかわからなくなる。苦しい。
「総司、どうしたの?具合でも悪いの?」
「え?」
「涙、泣いてるの?」
「―いや、感情移入して読んでたから、涙出たみたい。」
心配そうに見つめる君に乾いた笑みを浮かべる。
眉を寄せた儘笑う名前が愛おしくて口付けた。好きだよ。全てこの気持ち伝われば良い。そうしたら君を、失わなくて済むのに。

月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、そして金曜日。
夜名前がうちに来て、夕飯を作って遅く帰った僕を迎えてくれた。
「おかえり、今日遅かったね。お疲れ様。」
「ごはん作っておいてくれてるって分かってたから、もっと早く帰ってきたかったんだけどね。」
「仕方ないよ、繁忙期だし。」
「ありがとう。でもゴメン、今日もう疲れててご飯いらないや。それより寝たいな。残業続きで寝てなかったんだ。」
「あ、そうだったんだ。お風呂も一応用意してあるよ。」
ネクタイを緩め振り返ると名前は少し哀しそうに笑っていた。ああ、またやっちまった。
「…とりあえず風呂入ってくるね。」
僕はそれを見ないフリして、浴室へ向かう。
熱いシャワーを浴びながら考える。名前は今頃泣いてるんだろうな。忘れてる訳じゃない。今日が付き合って6回目の記念日だっていうこと。だけどもう、終わりにしよう。だから君は最後僕を嫌えばいい。長く付き合っていたのに、最低な奴だった。そうやって友達に愚痴れるくらい、嫌いになればいい。
「っあー疲れたー。せっかく来てくれたのにごめんね?でももう限界だから先に寝るよ。おやすみ。」
キッチンで俯いたまま片づけをしている君に一方的に告げると寝室へ向かう。扉を閉める直前目に入った君の表情に、ずきずきと胸が痛んだ。


土曜日の朝、隣で眠る名前の瞼はやっぱり赤い。
軽く頬を撫でるとせつなさがこみ上げた。でも、もう、これで終わりだ。
時計を見るとまだ起きるには早かったけれど、もう眠れそうにもない。
仕方なく身体を起こす。名前を起こさないようベッドから降りキッチンへ向かう。きちんと片づけられた部屋を見ていると、これから自分が起こす行動を脳内でイメージして、気分が重くなる。億劫だ。
ため息を吐いてコーヒーを淹れていると寝室のドアが開いた。
「おはよう、」
いつも通り笑う僕に、君は困ったような笑顔で応えた。
「おはよう。」

また、一日が始まる。

一通りの事を全て終わらせた。僕はソファに腰掛け、名前は洗い物をしている。
全ての食器が片づけ終わり、君が僕の元へと歩きだした。
―言うんだ。
「ねえ、」
立ち上がり、振り返り、君の目をまっすぐにみた。
「どうしたの?」
いつも通り、だけれどどこか怯えたように君は僕を見返した。
「ごめん、でももう、終わりだ。別れよう。友達に、戻ろう。」
告げると共に、見開かれた名前の目に僕が映る。
逃げ出したいくらいに、胸が痛んだ。




その後のことは、もう細かくは思いだせない。
名前は泣いて、僕は立ちつくした。
すがることもせず、名前は荷物を持って出て行った。
大きな疲労感が僕を襲う。倒れ込むようにソファに身を預けた。

君の顔ばかりが瞼の裏をかすめる。
見開かれた瞳、絶望に歪んだ口元。
君の笑顔を、きっともう僕はつくる事はできないんだろう。
ひとつひとつの思い出を記憶に変えていかなければいけない。
ぐちゃぐちゃと頭の中が混乱してしまって、自分でももうどうしようも無い。ただ、涙が一粒流れた。



世界は全てお芝居だなんて言うけど
こんな結末なら、僕は何を想って生きればいいの。

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