朝焼け観覧車

ふらり、なんとなく家を出た。特に行先はない。気の赴くままに駅に向かって歩く。新聞配達のバイクの音と、24時間走る輸送トラックの音。あとは何の音もしない、早朝。
大体、近藤さんも土方さんも心配しすぎ。もう十分傷は癒えたっていうのに、まだ僕を家の中に押しこめておこうとする。昨日だって、お節介な土方さんがうちに来るものだから姉さんも家に来て結局殆ど姉さんと土方さんが話しているだけの空間になった。

なんとなく気が赴くままに駅に向かった。住宅街にだんだんと商店が増え、見た目に賑やかになる。そういえば、名前とここのお店で喧嘩したな。きっかけが何だったのかよく思い出せないけど、そう、パンを買おうとして、それで名前が沢山食べろってうるさいから、僕が「いらない」って言ったんだ。そうしたら更に名前が煩くなって。
思わず頬が緩んだ。いつだってそうだ。誰かと意見が割れたって絶対折れなかった僕が唯一折れたのが名前だ。一度じゃない。我儘な性格が、愛しく感じられるなんて言ったら名前は笑うかな。


「総司!ねえ、明日は何処に行く?」
「土曜だから何処行っても混んでるんじゃない?」
「でも一日空いてるのって土日だけじゃん」
「まあ、それはそうだね」
「じゃあ横浜行こうよ。みなとみらい!私観覧車乗りたい。なんだっけ。コスモワールド?ほら、ピンクの観覧車」
「観覧車、ねえ」
「嫌?中華街もあるよ!」
「…いいよ。でも、頂上ついたらキスさせてね」
「っ、何言って…!」

恥ずかしくなると、名前はいつも僕の肩を叩く。ぱしんって音がする割には痛くないのは、きっと名前が加減してるから。
パン屋さんはもう支度に入っているらしい。奥の方に明りが見える。止まりそうになった足を意識して前に出す。立ち止まっちゃいけない。ぎこちなく動き続ける足を、更に前へ前へ進めていく。

駅に入るには、一度線路を渡らなくてはいけない。学校に行くのにいつだってここで待たされる。携帯を弄って待つ僕と、じれったいと口にする名前。付かず離れず。いつだって手を握れる距離にいたのに、「友達だ」って名前が言うものだから僕はどうしてもその手を握れなかった。九割九分同じ気持ちだってわかってるのに。残りの一分が僕の手を止める。「本当に名前は僕の事が好き?」僕はいつだってそれに確証が持てなかった。確かに僕と名前はいつも一緒にいたけど、一度だって名前からそんな事を言われたことがない。バレンタインだって他の人と同じチョコだったみたいだし、僕の誕生日はいつも当たり前に祝ってくれる。だから、もしかしたら名前にとって僕はただの友達でしかないんじゃないかと、不安だった。
カンカンカンカンと踏切の警音が鳴る。黄と黒の棒が左右から降りて来た。そうか。始発の時間か。鈍銀色の電車が駆け出しのゆっくりとしたスピードで目の前を横切って行く。

「ねえ、ここの踏切ってさ、渡ろうとすると必ずおりるよね!」
「そういう時間帯だから仕方ないんじゃない?」
「でもさー!」
「ほら、行こうよ」
「あ、うん!」
「ねえ名前」
「なに?」
「…なんでもない」
「何それ、気になるじゃん」
「ずっと気にしててよ」
「もう!」

踏切を渡りながら、肩を叩かれる。言いたかった言葉は胸に湧き上がって零れていく「好き」の二文字。いつだって云う機会はあった。あたたかい毎日の中で、僕はいつだって名前の隣にいる。


ICカードを取り出して改札を入ると、電光掲示板に次の電車の時間が表示されていた。今からホームに向かえば丁度来る頃だ。遠くへ出かけるのだろうか。荷物を持った若い男と僕だけがホームに向かう階段を上っていく。
登りきった先で、空が少し白んで来たのが見えた。駅に入ってからホームに出るまでそんなに時間はかからなかった筈なのに、急速に時間が進んだように感じられた。鉛を繋げた綱が胸の中で引きずられるような、重い不快感。眉が寄ったのを自覚したところで、電車が到着するアナウンスが流れた。
殆ど人の乗っていない電車が、ゆっくりと駅に入って来る。目の前を何両かすり抜けた。シューッと、空気の抜けるような音と共に開くドア。不思議な明るさを持ったそこに、一歩足を踏み入れる。もわり、肌を生暖かい空気が撫でた。


「ねえ総司」
「なに?」
「観覧車、楽しみだねっ」
「そんなに僕とキスしたいの?」
「…ばか!」
「照れなくても良いのに」
「…」
「名前?」
「…」
「…名前?」
「ばーか」


揺れる電車。あの日と同じようにカタンカタンと規則正しい振動が伝わって来る。赤くなった名前が愛しくて愛しくて、誰にも見せたくないから混んでもいないのに名前を端に寄せた。
戸惑うように瞳を揺らした名前に笑いかけたらふっと顔を逸らされてしまった。最初は冗談のつもりだったキスの話。だけど、その顔を見るのは僕だけにしてほしくて…僕は、観覧車の中で気持ちを伝えようと、腹を決めた。





降り立った駅は、あの日降りられなかった駅。桜木町。いつの間にか乗り込んでいたサラリーマン達が何人か降りていく。観光地の駅だからてっきり広いのかと思ったのに、思ったより古く狭い駅。階段を降りて、改札を出る。向かい側にコンビニがあった。ホームから見えた観覧車。多分、改札左の出口から出る筈だ。
「名前、」
駅から出ると、いつの日かテレビで見た光景が広がった。左手に高層ビル。左手に商業施設。正面に橋と…その先に、ピンク色の観覧車。空は燃えるようなむらさき。星が微かに光を放ち、ひっそりと息をしていた。
「名前」
こんなところに、名前が居る筈なんてないのに。あの日一緒に乗る筈だった観覧車は、今目の前で止まっている。
「名前」
必死に掻き抱いた名前の身体からどんどん体温が失われていく様が、今でもありありと思い出せる。自分の背や脚だって笑っちゃうくらい血が出ていたのに、目の前で魂が抜けていく名前をなんとか繋ぎ留めたくて、それでも僕には、何も出来なかった。ただただ名前の名前を呼んで、抱き締めて、昼の筈なのに真っ暗な中。呻きと泣き声と叫び声、それから遠くで聞こえるサイレン。
「名前」

「名前」


「名前」




「好きなんだ、君が。僕の何に代えても、君を守りたい。僕と一緒に笑っていてほしいんだ。名前」




あの日言えなかった言葉。…あの日、伝える筈だった想い。ねえ、どうして僕はこんな簡単な事を君に伝えられなかったんだろう。
目の前で神様にとられていく名前を、どうして此処に繋ぎ留めておけなかったんだろう。
どうして、どうして、どうして。

「名前」


もう、名前が居ないことなんて分かってるんだ。一緒に学校に行く事もない。帰り道に寄り道する事もない。寝る前に電話する事もない。触れる事も、笑う事も、話す事もできない。
それなのに僕は。君といた景色の中に、君の姿を探してしまう。僕のたった一つの願い事が叶うのなら、今すぐ君に会いたい。君に好きだと伝えたい。そしたらきっと、君は顔を真っ赤にして、僕の肩を叩いて、その後で眉を寄せて訊くんだ。「本気?」って。そこまできて、漸く僕は初めて名前の唇に触れるんだ。




「―名前っ…!」



ねえ、名前、どこに行けば君に会えるの?

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