海に沈む雪

チューベローズその後if



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息が出来ないとか、そういう事はないのに、苦しい。





名前との最後のデートからもう1ヶ月近く経つ。あの日、僕を置いて店を出た名前が泣いていないか心配で心配で仕方無かったけれど、そうしてしまったのは僕自身に他無いのだから、そんな事考える事すらおこがましいのに。泣いている名前を想像したら、どうしても放っておけなくて、携帯を取り出して電話をかけた。そこに甘えがまだあったのかもしれない。もしくは一縷の望みか。けれど短いコール音の後、すぐにツーツーと電子音が鳴り着信を向こうから切られた事が分かった。
何もできないでいる僕は、そのままそこに座っているしかなくて。夜になって平助からかかって来た電話に出たところで、漸く店を出た。観る筈だった映画はもう既に終わっていたし、空は真っ暗。風がいやに冷たかった。
そこから、名前なしの生活が始まった。
何て事はない。だって、四六時中一緒にいるような仲じゃなかった。それなのに、朝、家を出てすぐとか、昼休みに時間が出来そうな時とか、夜、家に帰って一人だってわかった時とか、寝る前とか。そうしたふとした瞬間に名前の笑顔を思い出して、携帯を手にしてしまう。だけどすぐに連絡を取る事は叶わないのだと思い出し、胸がすっと落ちていく感覚に襲われる。
落ちて落ちて落ちて。でも、底に着く事はない。まるで空に飛ぶのと同じように、ただひたすら沈んでいく。もっと僕が、名前への気持ちに向き合えていたら。こんな事にはならなかったのに。
胸が重い。苦しい。なんて、月並みな表現しかできない。誰かが言った「胸にぽっかり穴が開いたよう」とは、まさにその通りだ。
上手くこの気持ちをコントロールして、いつも通りにしようとすればする程、名前の事を思い出して、結局上手く出来ない。
忘れようとすればするほど、名前の事が頭から離れない。


いつも通り家を出た。冬はもう枯れようとしているらしい。あの日より幾分暖かい風が肩を撫でて抜けた。
あの日、観ようとしていた映画が今日までらしい。本当は二人で観る筈だったそれを、一人で観に行く事にした。あの場所へ行くのは、あの日以来。通り掛けに件の別れ話をされたカフェが目に入る。また、す、と胸が沈んだ。
映画を観た後も同じようになるかもしれない。だけどどうしても、観ておきたかった。名前と僕の意見が一致した、あの映画を。


今日が最終日だけあって、シアター内には殆ど人がいなかった。時間ぎりぎりに行ってしまったが、丁度シアターの中央付近のシートが取れた。チケット売り場で確認すると、既に後部席は取られてしまったらしい。仕方ない。コーラだけ買って、シアターに入る。
防音室特有の音を反射しない感覚。緩い階段を上り、自分の座席に向かった。



映画は、良くも悪くも愛に満ち溢れていた。家族愛と一言で言ってしまったら勿体無いほどの。
母から息子、娘から母、父から娘、息子から父。そして、父と母の、愛。一見一方通行の、片想いのような愛だけれどそのどれか1つが欠けてしまったら家族のバランスが崩れてしまうような、家族愛。僕は女じゃないから、母性愛なんて分からないけれど、でもきっとあの映画の中の父のように、僕は名前に愛されていたのだと思う。
父親が、会社の飲み会で若い女の子と話すシーンがあった。無礼講で「〇〇さんって理想の旦那さんですよね」とわかりやすくアピールする年下社員に向かって「ありがとう、でも僕は妻にとって最高の夫でいられなくちゃ意味がないんだ」って笑うシーンだ。その瞬間、会場内の雰囲気が和らいだのに、僕の胸はきつくきつく締め付けられる。戒めだ。
最後、様々なことがあって、一度は壊れそうになった家族が揃って鍋をつつくシーンがある。家族のタレの好みを熟知している母、息子に肉ばかり食べるな、と言う父。もくもくと白滝ばかり食べる娘、父さんだって、と反論する息子。そのシーンを見てなぜか胸が痛くなった。じんわりと目尻に涙が浮かんだのを感じたけれど、そのまま零すことにした。誰も僕の事は見ていない。それなら、取り繕う必要もない。

エンドロールが上がりきった後、ぱぁ、とシアター内が明るくなった。せめて泣いた事がわかり辛いよう、最後にシアターを出ようと、次々と人が階段を降りていく中、視線を足元に落とす。そう長くかからないうちにシアター内が静かになった。
空になったカップを持って、席を立つ。振り返ると本当にもう僕しかいないことがわかった。ゆっくりと階段を下り、スロープに差し掛かった所で清掃員とすれ違う。空のカップを渡して、そのまま外に出た。
得に何もすることが無い。外に出た所で小さく溜息を吐いた。もう少し人のいない所でゆっくりしたい。周りを見渡した後、どうしたものかと考え、商業施設の真ん中にある公園に行く事にする。
途中自販機で缶コーヒーを買って、殆ど人のいない公園でベンチに座った。中央に浅い人口の川が流れ、橋がかけられている。夏には子供たちがそこで遊ぶのだろうが、この季節では誰も川では遊ばない。落葉がゆらゆらと流れていくだけだ。


「名前」


ぽつり、と口から出た。特に今名前の事を考えていた訳ではない。ただ、そう、川を見ていただけだ。それなのに。
「名前」
もう一度、口から名が出る。だって、今視線の先にいるのは、あの日より少し細くなった名前だ。かけられた細い橋の上、ゆっくりとむこうから此方に向かってい歩いている。
何か考えるより前に、身体が動く。堅くなった膝を伸ばし、一歩一歩橋に近付く。あと数歩、というところで僕の気配に気付いた名前が顔を上げた。
なんで、と目が見開かれ、そして何かを堪えるように頬に力が入り、目が細められる。
限界だった。
右手を伸ばし、名前の細い細い手首を掴んだら、思い切り引き寄せる。ふわりと名前の匂いがする。懐かしい、あたたかい、大好きな匂い。
「ごめん、名前」
腕の中の名前は動かない。思い切り抱き締めた後、ゆっくりと身体を離す。
「総司…」
真っ赤な目をして、真っ赤な顔をして、僕を見つめる名前と、目が合った。



それ以上何も言えなかった。僕はもういちど、名前を抱き締める。
今度こそ、名前を絶対に泣かせない。

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