完結される物語

「指輪、返してくれないかな」

真っ白な病室が似合うとは皮肉なものだ。名前は総司を見舞う度に思う。ひとりの、普通の男の子だった総司がこの部屋に入って、3ヶ月になる。名前が初めて総司を見舞ったときは、総司の肌は今よりもっと健康的に黒く、もっとのびのびとした様子だった。まるで外に出たがっている猫を無理矢理部屋に閉じ込めているような、そんな雰囲気だった。
しかし今はどうだろう。総司の肌は女性である名前よりも白くなり、外に出たいと言う事も無くなれば、窓の外を見る事すらなくなった。たまに名前が持ってくる花に季節のものを混ぜても、総司はそれにすら興味を抱かない。まるで何かを待つように、閉鎖された空間の中で静かに日々を過ごしていた。
まるで少しずつ水位が上がっていくように、名前が、総司の見舞いに来る事に息苦しさを感じ始めたのはいつの事だっただろうか。部屋に入っても反応が薄くなり、話していてもふと総司が自分の向こうに何かを見る事が増えた。そんな折、名前の異変に気付いたのは斎藤だった。

「え?」
「去年の名前の誕生日にあげたやつ」

名前は自分の左手の薬指にはめられたシルバーリングに目を移す。これは、去年の名前の誕生日に、総司が彼女にプレゼントしたものだった。もちろん、それ指す意味も含めて、総司は名前にプレゼントした。
華奢なシルバーのリングは、細く色白な名前の指によく似合う。名前は水に触れる時を除き、常にその指輪を身に着けていた。幸せの象徴として。愛の象徴として。指輪を見る度、胸の中に何かが満ち溢れるようだった。多少の哀しいことも、指輪を見れば拭う事ができた。

「なんで…?」

総司が名前を見る。瞳の色が変わった訳でもないのに、名前の中にいる総司と目の前にいる総司とでは印象が全く違う。同じ緑でも、まるで新緑と水藻のように、違う。
「もう君がそれを着けている必要は無いんだ」
「えっと…」
「返して。それから、もうここには来ないで」
「…嫌だよ」
総司の瞳が細められる。捕食者のようなそれに名前は怯んだ。総司が怒っているのは分かる。が、何故返さねばならないのか。その意味がわからない訳ではない。けれど、何故。考えてすぐに名前は思い当った。まさか、そんな。
「嫌?君が嫌って言える立場なの?」
「総司、」
「一君が、昨日此処に来たんだ」
ざわり、肌が粟立った。自分の心音が煩い。喉が詰まって、声が出せなくなった。
「一君ははっきり言わなかったけど、最近の名前の様子と、一君の昨日の態度で分かったんだ」
総司は、名前を見る目を更に細めた。見透かされている事が居た堪れなく、名前は俯く事でその視線から逃れる。
「名前」
愛した声だった。大好きだった声だった。この人の為なら、何でもできるって疑問も持たずにそう思ってた。
「総司、わたし…わたし…」
名前の頬が引き攣るように持ち上がった。唇が歪み、視界がぼやける。目頭が熱い。何故自分が泣くのか。泣きたいのは総司の筈だ。裏切ったのは自分で、裏切られたのは総司だ。それなのに。

ぽろぽろと窓に打ち付ける雨粒のように、彼女の涙が頬を伝うのを見て、総司の心が軋むようだった。
泣かせたい訳じゃない。泣かせたかった訳じゃない。指輪だって、名前の笑顔を見続けたいから渡した。名前の指で光る指輪が、まるで名前の涙のようで見ていられなかった。
見舞いに来る度、名前の笑顔が引き攣っていくのを見て見ぬフリをし続けた結果だ。彼女の孤独に気付いていながら、自分の孤独を優先させて、彼女を傷つけた。だから、名前を責める気はない。悪いのはこの病で、更に言えばこの病にかかった自分自身に非がある。
だから、名前を解放したかった。総司にとって唯一外と繋がる手段だった名前を、手放したかった。彼女は幸せになって良いんだ。自分に縛られる必要はない。今までも、これからも。
名前には笑っていて欲しい。それが総司の、唯一の願いだ。残り少ない命のなかで、たった一つの、祈りに似た願いだ。


「好きになっちゃったんでしょ?一君を」
「…ごめんなさい、ごめんなさ…っ、ごめ…ごめんなさい」
まるで親に叱られる子供がそうするように溢れ続ける涙を手の甲で拭う名前。そんなにしたら折角綺麗にしてきた化粧が取れてしまうのではないかと止めようとしたところで、名前が口を開いた。

「かえさない。だって、返したら総司、ひとりになっちゃう」

本当に、嫌になる。総司の胸に怒りとも愛しさともつかない、激しい感情が湧きあがる。
そう。そうだ。名前を手放せば一人になる。わかっている。それがどれだけ苦しい事なのか、寂しい事なのか、想像だって容易くできる。それでも、名前には陽の下で明るく笑っていて欲しい。こんな場所に、こんな自分に縛られる事無く。総司がそう思う一方で、彼の胸にはとてつもない愛しさが湧きあがっていた。
総司が名前を愛した理由は、名前のこの深い深い母性愛にあった。総司がどんな無茶を言っても名前は困ったように笑いながらそれを全部受け止める。総司が漠然とした不安から名前を突き放そうとすれば、彼女は離れたフリをして総司の背に自分の背をあてる。総司が自分を騙して笑って見せれば、その心に寄り添って代わりに泣く。その、偽善ともとれるような仄甘く、温かな愛情が総司は好きだった。何にでも同じように平等に愛そうとする彼女を守りたいと。彼女を傷つける全てのものから彼女を守りたいと、そう、思っていた。
けれど現実はどうだろうか。今、目の前で泣いているのは、誰の所為か。これから数ヶ月彼女は確実に苦しむし、“その時”が来たら、彼女がどうなってしまうのか想像するだけで胸が張り裂けそうになる。名前には笑っていて欲しい。総司の切なる願いだった。そのためだったら、どんなに辛い想いだって飲みこむ事だって出来る。

「ねえ、死ぬの待たれるってどういう気持ちか、君はわかる?」

ぴくり、と、何かに押されたように名前の肩が震えた。畳みかけるように総司は言葉を続ける。
「好きになっちゃったんでしょ?一君の事。一君なら大丈夫だよ。あんな堅物だから、名前を残して死んだりしないから」
願いか、祈りか。人の心に聡い名前なら、自分の気持ちに気付くだろうと総司はそれ以上言わずに笑った。努めて柔らかく、そして精一杯の愛を込めて。

「総司、」
「だから、その指輪はもうお役御免なんだ。返して」
躊躇いがちに名前の右人差し指と親指が、華奢なシルバーリングに触れる。指先に少し力を入れれば摩擦で外れ辛くなったリングがスルリと抜けた。名前が一歩、総司のベッドに近付いた。総司の右掌が指輪を受け取ろうと差し出される。名前の知っている総司の手より、ずっと細くなった指、薄くなった掌。そこに、リングを置いた。
「総司、わたし」
「もう、ここには来ないで良いよ」
何かを伝えようとした名前の言葉を、総司が遮る。それ以上聞いてしまったら、今もぐらぐらと揺れている自分の心が、完全にバランスを崩してしまう気がして、聞けなかった。代わりに突き放す言葉を口にしたのは、これ以上弱っていく自分を見られたくないのと、それから、名前と斎藤との仲を早く深くして欲しいからだ。遠からず来る“その時”に、誰かが名前の肩を抱かなくては彼女はひとり泣く事になる。絶対に、そんな事はさせたくなかった。そして出来ればその役は総司自身が信頼できる相手であってほしい。斎藤であれば、問題無く名前を任せる事が出来る。多少人の心の動きに疎い部分はあるが、生真面目で優しく誠実な男だ。


「泣かないでよ」
ぽろぽろと小さな宝石のような涙を零し続ける名前に、総司は笑いかけた。そっとその手を引き、自分の近くに寄せる。
「少し、屈んでくれる?」
正直言えば、身体を起こしているのも辛くなってきていた。総司の青白い顔を見て、名前の涙はぱたりと止まる。そして言われるがまま、ゆっくりと身を屈めた。
「ありがとう、名前。君と出会えて本当に僕は幸せだったよ。さようなら」
名前の両頬が総司の筋張った両手で優しく包まれた。総司の渇いた唇が名前の額に触れる。囁かれた言葉は不思議な程に穏やかだった。








人づてに、名前と斎藤が付き合い始めたと聞いたのは、あれから2ヶ月してからだった。今でも鮮明にあの日の事を思い出せるのに、総司の身体はベッドから身を起こす事さえできなくなっていた。一日三度運ばれて来る料理も、口に入れられない。
白んでいく毎日に色を差すのは、別れても尚名前だった。それが、悲しいようで、嬉しい。
「名前、」
久しぶりに発した声は自分の知っている声よりも擦れていた。声帯も、使わなければ弱っていく一方だということを初めて知った。今更新しく知識を得たところで、それを披露する相手なんていないのだが。
微睡んでいるような、朦朧とした意識の中で、名前の顔を思い出す。いつだって名前は一生懸命だった。総司の記憶の中の彼女はいつだって総司に笑いかけていてくれた。総司が泣かせた後も、目を真っ赤にして笑っていた。
名前の笑顔を思い出す。それだけで、言い知れぬ幸福感が胸に溢れた。彼女が他人のものになったというのに。それでも心の中の名前は、総司を幸福で満たした。



遠のいていく意識の中で、総司は名前を想う。
どうか、彼女が笑っていられますように。どうか、彼女がひどく傷つく事がありませんように。どうか、彼女が愛されて、幸せでありますように。



ただ名前が幸せなら、それで良い。僕は―…


















-end-



花子/とア/ンパロ。香澄さんが総司にダブって辛かったです。
あと郁也×かよも好きでした。


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