明くる日の夢

物心ついた時には、既に禿として姐さんに付いて回っていた。この生き方が“普通”だと、何の疑いもなく、そう思っていた。
偶に座敷に呼ばれた際、他の座敷で笑っている芸妓達を見るまでは。

ここのところ、贔屓にしてくださっている“新撰組”の“沖田”さん。
他の座敷で噂に聞く彼は、ひどく恐ろしい人だった。しかし、初めて彼の座敷に上がった際に、人の噂というのは本当にあてにならないという事を知った。ただの、先入観であると。
現に今私の膝の上で寛ぐ彼は、まるで昼寝をする猫のように自由で、人懐こい。
女性のそれのようにやわらかく、素直な髪を撫でてやるときれいな瞳が此方を向いて、細められた。同じように笑ってみせると、髪を梳いていた手を取られ、そのまま彼の口元に掌が寄せられた。
「沖田はん…」
「名前で呼んでよ」
「…」
「名前…?」
「…総司、はん、」
「まずまずだけど、まあ今日はそれで許してあげる」
唇を寄せていた手を解放すると、彼は子供のように笑ってから身体を起こした。
「沖田はんは意地悪でありんす」
彼の熱を直に感じた掌が、あつい。袖の内に隠して彼を見ると、丁度盃を手にしたところだった。徳利を手にとり、彼に酌をする。
「別に意地悪なんてしてないよ。少し焦った君の顔が見たかっただけで」
「やっぱり、意地悪でありんす」
彼は、その後は何も言わず盃に口を付け、外を眺めた。以前はよく他の方と連れだって飲んでいたが、最近はこうして一人で来る事が多い。賑やかな座敷ではないが、不思議と彼の座敷は心が落ち着いて好きだ。

「ねえ。そういえば君って何か夢とかあるの?」
「夢でありんすか…?」
考えた事も無かった。年季を明けても色町に関わって生きていくと思っているし、それが当たり前だと思うから。なれば、置屋一、京一の遊女を目指すか…?否、そんなものに興味はない。富や名声が欲しい訳ではないのだ。
「考えたこと無かった?」
「ええ、」
ずっと稽古をして、水揚げしてからは客を取って、着飾って生きてきた来た。姐さんたちが身請けされたり、年季明けでこの街を去ったりして、いつの間にか自分が「姐さん」になった。だから、私もこのまま彼女達のように生きていくのだと。
「僕と出会っても?」
彼は、盃を置くと、私に身体を向けて座り直した。先程までのやさしい色が、消えた。向けられた視線は真っ直ぐで、私の瞳を通じて私の心を覗かれているようだ。
「…っ、」
「逃げないで」
見つめられると、どくりどくりと心の臓が鳴る。風邪をひいた時のように、くらくらと顔に熱が集まる。沖田さんは私の手を掴んで、離さない。捕えられてしまった。

「僕は、僕は君と出会って、初めてこの人が欲しいって思ったよ」
何も言えずただ彼を見つめ返していたら、沖田さんの口が開かれた。
「認めて欲しいとか、役に立ちたいとか、そういう事じゃなく。君が、欲しい」
僅かに、本当に僅かにだけれど。彼の頬に薄紅色が差す。未だ何も言えずにいる私に、何か言えとでも言うかのように、握られた手に少し力が込められた。
「うち、は…」

ここにいる事が当たり前だと思っていた。客を取る事が当たり前だと思っていた。いつかの姐さんのように身請けされる事なんて自分には無い事くらいわかってた。だから、年季明けまではこの置屋にいるし、明けてもきっとこの町にいる、と。そう思っていた。
すっと、土が雨を飲み込むように急速に、そしてひとつひとつ確実に、自分の中にある気持ちが言葉になっていく。
考えた事が無いんじゃない。すべて、言葉にする前に諦めていた。諦めて、いたんだ。
欲しがれば、欲はどこまでも深くなる。欲の感性が豊かになれば他の置屋の子を見て容易に嫉妬してしまうだろう。そんな自分を、私は許せない。そうならないように、そんな醜い自分にならないように、多くのものを端から諦めた。

目の前にいる青年は、私を欲しいと、言う。こんなの客の戯言だと、適当に笑ってやりすごせば良い。頭では理解しているのに、胸が鳴るのが抑えられない。握られた手が、見つめらえる視線が、熱い。

「…なんて、ね」
「え…?」
沖田さんは私の手を離すと殆ど手を付けていない膳を私の方へ押して寄越した。
「食べなよ。僕、お酒飲むと食事出来ないんだ」
彼の目は此方を見ない。盃を見る彼の瞳は、睫が陰を作っている。先程真っ直ぐ此方を見ていた目とはちがう、揺れる瞳。

「ごめん」
「沖田はん?」
ゆらゆらと盃の中の酒で遊んでいた沖田さんが、口を開いた。
「君を、本当に欲しいと思ってる。その言葉に偽りはないよ。…でも、僕は新撰組の沖田総司だから。だから、君を求める前にやらなくちゃいけない事がある。僕は、近藤さんのように懐が広い訳じゃないから、君を手に入れてしまったら、きっと君は僕の弱点になる」
「大丈夫でありんすよ。うちははなから年季明けてもこの町におるつもりやさかい」
沖田さんが、ひどく傷ついた顔をした。ずるい。ずるい。そんな顔をするなんて。これがただの言葉遊びならどれだけ良いか。
心の中で降り出した雨は、いつの間にか土砂降りになって、彼が欲しいと気持ちが溢れて止まらない。いつもの笑みを浮かべて彼を見る。彼は今にも泣きそうな顔で、私の頬を撫でた。
「こんなに近くにいるのに、君を他の男の元になんてやりたくないのに、それでも僕は、今の生き方を変えられない」
私の頬を撫でる親指は、なんて優しいのだろう。何故こんな風に触れるの。肌から、気持ちが伝わってしまいそうだ。
「ごめんね」
下瞼が、持ち上がる感覚とともに、視界が揺れる。溢れるのは、涙ではない。気持ちだ。
「ほんに、意地悪な人」
「…その涙は、君も少しは僕を見てくれているって解釈して良いの?」
困ったように眉を下げながら笑う沖田さんは、今まで私が見てきたどの表情よりも人間らしい。見栄や虚勢、甘えや夢なんてない、等身大の彼を初めて見た気がした。
「それなら、」
頷けないまま彼を見る私の、僅かに震える手を総司さんの大きな手が再び包んだ。
「それなら、君がもし誰にも身請けされないまま、年季を明ける事になったら、僕のところにおいでよ」
「…え、」
「さっき言ったとおり、身請けしてしまったら、君は僕の弱みになる。君がどうこうするって話じゃなくて、僕の気持ちの問題だ。一度手に入れてしまったら、君以外の誰かの為に戦えなくなっちゃうからね」
はらり、一粒の涙がおちると、すかさず彼の人差し指がそれを拭う。
「でも僕は、諦めが悪いから…君が欲しい。だから、君が年季を明けるまでに僕も僕自身と上手く折り合いを付けるよ。約束。君の年季が明ける二十七になったら、迎えに来る」
「そねえな約束、守りんせんやろ」
「そう思うならそれで良いよ。何せ、いつ死ぬか分からない身だから。下手したらそこら辺で犬に食べられてるかもしれないしね?…それでももし君の年季が明けて、僕の事を君が覚えてたら、僕のところにおいでよ」
先程から涙が止まらない。次々と溢れる涙で白粉はところどころ落ちているかもしれない。目に引いた墨も、取れてしまっているだろう。なんて醜い顔を、彼に晒しているのだろうか。
「こっちを見て、名前」
言われるがままに、視線を上げれば、沖田さんの翡翠のようなきれいな瞳が、再び私を射た。
「これが、僕の気持ち。受け取るも受け取らないも、君の好きにして良い。売ってお金にしても良い。受け取って」
懐から丁寧に薄紙に包まれたものを、彼は私の手に乗せた。躊躇いの気持ちもあるが、もしやと心が指を急かす。そっと包みを開けばそこにあるのは漆塗りの地に白蝶貝で桜文様の描かれた、櫛。
「これ…っ!」
「言ったでしょ?僕は君が欲しい、って」
沖田さんの目は、やさしかった。頂いた櫛を髪に挿してみせると、彼の笑みが深くなる。
生まれてはじめて、気持ちが大きくうごいた。嬉しいという感情が、こんなにも素晴らしいものだとは知らなかった。そして、愛しいという気持ちが、どれだけ力強いものなのかということも。


願掛けだと言って、沖田さんはそれ以来私を呼ばなくなった。偶に、置屋で新撰組の噂を聞く事はあっても、彼の噂は殆ど聞かない。もちろんお座敷で彼の名を出す事もない。
もしかしたら、という不安はいつでもある。けれど彼から貰った櫛を見ては、あと四、五年で年季が明けるのだと自分を鼓舞させた。

櫛をもらって、初めての春が来る。櫛に描かれたのと同じように萌える花たちのなんと美しい事だろう。

明くる日には、この花たちは雪洞(ぼんぼり)のように咲く事を願って、私は今夜も客を取る。




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