憂鬱焔
「豪炎寺くんは、虎丸くんが好きなんだ?」
いきなり現れた基山は、豪炎寺の隣に陣取って目の前の蛇口をひねった。ひっくり返った蛇口から勢いよく放たれた水を、実に美味そうに飲んでいる。
練習の合間の手洗い場。突然の問いに豪炎寺は、蛇口から流れる水はそのままにしばらく固まっていた。
「――ところでさっきのグランドファイアだが」
「あ、否定はしないんだ?」
何事もなかったかのように話を進めようとした豪炎寺の目論見は脆くも崩れさった。
「……挙げ足を取るな」
「事実を言っただけだよ」
いつの間にか蛇口を閉めて、基山はにこにこともにやにやともつかない微笑で豪炎寺を見つめていた。
豪炎寺はまたしばらく黙りこんだ後、ぽつりと呟いた。
「わからない」
***
虎丸の声に部屋のドアを開けた豪炎寺は、かろうじて顔には出さなかったものの内心とてつもなく狼狽えた。
「すみません、今日も来ちゃいました」
虎丸は「えへへ」と笑う。
まるでサイズのあっていないTシャツからは、いつものジャージではなく素足がのびていた。
虎丸が豪炎寺の部屋にやって来て、そのまま朝まで一緒に寝るようになったのは今に始まったことではない。夜に部屋に行ってもいいかと聞かれたので許可したら、そのまま恒例になってしまったのだ。
ただ、一緒に寝るといっても文字どおり同じベッドで同じ布団に入って、そのまま眠くなるまで他愛ない話をしてそれぞれに寝るという、互いの寝る領域がいつもより半減しただけのものだった。虎丸が一時的にホームシックだったことをそれとなく飛鷹から聞いて知っていたので、それで虎丸の寂しさが少しでも和らぐなら……と、豪炎寺自身はそう考えていたのだ。
しかし一緒に寝るようになってしばらくすると、虎丸は豪炎寺の背中にぴたりとくっついてくるようになった。どうしたのか聞いても、返ってくるのは「えへへ」という笑い声。「ごーえんじさん!」とやたらにご機嫌なその様子が、「おにーちゃん!」と自分に甘えてくる最愛の妹とかぶり、なんとなく満足した豪炎寺は、とりあえずそのまま背を向けて眠っていた。
ところが、その日から虎丸の様子は明らかに変わっていった。
相変わらず背中にくっついて、しかしだんだんと、とても切なそうな声で豪炎寺の名を呼ぶようになったのだ。
虎丸が豪炎寺になついていることは周知の事実だったが、ただならぬ想いを抱いていることに気づいている者は少なかった。それでも豪炎寺自身は気づいていたが、あえて気づかないフリをしてきたのだ。
そのツケが回ってきた感じなのだろうかこれは。
Tシャツから覗く素足から目を逸らしながら、豪炎寺は平静を装った。
しかし、おじゃましますと部屋に入ってドアを閉めた虎丸が、すかさず鍵を閉めたのを見てしまい、豪炎寺は更に狼狽してしまった。
「…………」
「……あの、座ってもいいですか?」
いつもなら何も聞かずにさっさとベッドへ腰掛けるのに。
かまわないと許可して自分もベッドへ腰掛ける。すると、虎丸は大分緊張した面持ちで、豪炎寺の隣に人ひとり分開けて腰掛けた。
明らかに何かを意識している。
いつもと異なる虎丸の挙動は豪炎寺の憂鬱に拍車をかけた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙が続く。
虎丸が部屋に来るようになって以来、こんなに気まずい雰囲気になったことはなかった。が、黙りこんでいても仕方ない。豪炎寺は核心をつくことにした。
「……虎丸」
「!は、はい!」
「その格好はどうした?」
「……え……っと、その……」
虎丸はTシャツの裾を握りしめて、豪炎寺から目を逸らした。心なしか頬が赤い気がする。
豪炎寺は虎丸のほうを見ないようにして立ち上がり、自分の着替えの中からジャージをひっつかむと、そのまま虎丸に差し出した。
「……豪炎寺さん?」
「これを履け。そのままだと風邪をひく」
「!!」
途端に虎丸は表情をくもらせて、俯いてしまった。
「俺じゃあダメですか……?」
やがて虎丸は消え入りそうな声で言った。
「……何がだ」
「グッとキませんか!?ドキドキしたりしませんか!!??俺じゃあ魅力がないですか!!!??」
かと思うと今度は大声で捲し立て、終いには「俺が小学生だからですか!?」と言いながら泣き出してしまった。
まさか泣き出すと思っていなかった豪炎寺は、突然のことに戸惑いながらも、グッとクるってなんだ?ドキドキするってなんだ?ムラムラか何かか!?と、次第に痛くなってきた頭を抱えた。
「どうしてそういう話になるんだ!?」
「だって……だって吹雪さんが、こういう格好すれば大抵の男はイチコロだって言うから!!」
「吹雪……」
(一体何を吹き込んでいるんだあいつは……!)
大方、虎丸の着ているTシャツも、吹雪が貸してやったものなのだろう。大きさから考えたら、もしかしたら染岡のものかもしれない。
にこにこと微笑むチームメイトの顔と、その後ろで頭を抱えるストライカーの姿が見えた気がした。
なつかれるのは悪くない。むしろ可愛いヤツだと思うし、たまに気紛れに頭を撫でてやった時に「子ども扱いしないでください!」と、文句を言いながらも嬉しそうにしているのを見ると堪らなく幸せな気分になるのだ。
虎丸に対して特別な感情がないと言ったら嘘になる。しかしそれが虎丸の求めている感情と同じであるかどうか、豪炎寺にはわからなかったし、わからなくてもいいと思っていた。
しかしどうやら虎丸はそうではなかったようだ。
泣き続ける虎丸を前に、途方にくれる豪炎寺は、とにかく目の前の小さな身体を抱き締めてやることしかできなかったのだった。
***
「で、それからどうしたの?」
濡れた顔をタオルで拭いながら基山は尋ねた。
「別に、特に、何も……」
同じく、濡れた顔をタオルで拭いながら、豪炎寺は答えた。
「何もなかったんだ?」
「……あぁ」
「ふーん……」
あっさりと言われた一声に、豪炎寺は基山を睨み付けたが効果はなかった。
基山が再び口を開いた瞬間、
「ごーえんじさん!ヒロトさん!」
と、高い声が周囲に響いた。
「もうすぐ休憩おしまいですよ?早くグランドファイア練習しましょう!」
「あ、もうそんな時間なんだ」
「戻るぞ虎丸、ヒロト」
言うが早いか豪炎寺は踵を返す。
虎丸はその後ろを追いかけ、振り向き様にヒロトに向かってウインクを投げた。
実は基山は、昨晩の豪炎寺の部屋での出来事を既に虎丸から聞いて知っていた。
ただし、今朝から随分と思い悩んでいる様子だった豪炎寺に対して、虎丸は基山に会うなりすぐに、
「ヒロトさん!俺、昨日豪炎寺さんにちゅーしてもらいました!」
と、それはそれは嬉しそうに基山に報告してきたのだった。
結局、豪炎寺は一番肝心なことを基山には話さなかったのだ。
(わからないなんて言ってたけど……)
多分豪炎寺の中でも答は出ているのだろう。
足早に去っていく背中と、その背中に付いていく小さな身体を眺めながら、基山はゆっくりと微笑んだ。
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